電車内で静かにするのはなぜ?マナーの本質を考えてみた

電車のなかで音を出して動画を見ている高校生を注意した。 だけど何でそれをやってはいけないのか。
かれの出していた騒音は我慢できないほどのものではなかった。
聴力に障害を負うということはない、耳障りと言う程度だ。我慢は可能である。 実際、我慢できるから顔をしかめながらも見て見ぬふりをしていた人がいるわけだ。 でも聴力的にはまったく支障が無い程度の騒音であっても、近くで聞かされるとあなたも「イラっと」するはずだ。このイラつきの正体は何だろう。 マナーだから、常識だから、エチケットだからというのは、ダメなものはダメ。と言うぐらいの意味しかない。 それでは何も説明したことにならない。 なぜダメか。注意する前に立ち止まって考えてみた。

公共の場での快適な生活は皆の努力によって成し遂げられる

皆が静かにしようと心がけるから、騒々しい社内であってもある程度の環境が保たれる。もし皆が好き勝手に行動したら社内はもっとずっと騒がしく混乱した環境となるだろう。 このような環境においては、彼がもし動画を見ようとしても、静かな車内に比べてずっと不快な状態なはずだ。あまりに騒々しいと動画の視聴はできなかったかもしれない。 要は皆が我慢して自制しているところで、他人がルールを守ることを前提として、自分だけを特別視して好き勝手やることが問題なのだ。 そういった、自分だけを例外化する行為は”ずるい”のだ。 そして、皆の他者への配慮があって完成している空間での他者への配慮を欠いた振る舞いがイラつかせるのだ。 よって、彼が行った「電車内で大音量で動画を見る行為」は自分を特別視するズルい行為にあたると考え、彼に一声かけた。 「それ、音消しませんか?」と。

カントの道徳法則:定言命法による解釈

カントは普遍的な道徳法則として、下記の定言命法を提案した。
君の意思の格率[行動方針]が、つねに同時に普遍的立法の原理として通用することができるように行為しなさい。


カント 「実践理性批判」 坂部恵 伊古田理訳
自分の行動方針が、いつの時代も、どんな人たちにとっても正しいように行為しなさい、という道徳法則だ。 これを現実の問題に当てはめるとどうなるだろう。御子柴義之氏の「自分で考える勇気 カント哲学入門」では次のような事例が紹介されているので引用してみよう。
 さて、たとえば「試験が来たら、カンニングをして済ませよう」という格率について考えてみましょう。この意志の格率に普遍性があるでしょうか。 (中略) 全員がカンニングするつもりなので誰も試験の準備をしてきませんから、誰の答案も写せません。 (中略) つまり「試験が来たら、カンニングをして済ませよう」という格率は、多くの人が試験の準備をしてカンニングをしない場合にだけ成立するのです。 (中略) こうした行動原理の特徴は、自分以外の多くの人がルールを守ることを期待しつつ、自分を<例外化>していることです。私たちが「ズルい」という非難の言葉を語るときには、まさにこの事態が言い当てられています。 御子柴義之 「自分で考える勇気 カント哲学入門」
ここでは、カンニングを事例にわかりやすく解説されている。また、この理屈は電車内で静かにするべきか否かと、同じ構造を持っていることが分かる。 騒音の大きさというよりも、他人への配慮を欠き自分を特別視する行為に我々は「イラっと」しているのではないか。
これにしたがって考えれば、例えば車内での会話もまた限度を超えれば、同様に”正しくない”と言える。 ところで、車内で電話をかけるのはNGとされているが、車内での会話はNGとはならない。対面で会話することはOKで、その場にいない相手で機器を使って会話することはNGなのはなぜだろう。 これは、おそらく電話での会話はその場での会話に比べて、優先順位が低いと考える慣習があるためだろう。電話での会話は、受ける方の都合が悪ければ取らない、または取っても後からかけなおす、ということが一般的に行われている。電話での会話は時と場所を選ぶのだ。 それに対して、直接面と向かっての会話は優先順位が高いということが慣習として認められている。それでも自分たちの話し声が他人の会話や、社内の環境を悪くするような迷惑な大きさになるならば、社内で大きな音で音楽や動画を再生するのと同様の理由によりNGな行為と言えるだろう。
自分で考える勇気――カント哲学入門 (岩波ジュニア新書)