ダン・アリエリー「予想通りに不合理」読んで気になったポイント6つを紹介

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

人間の行動は、自分自身が考えているような合理的なものではなく、むしろ不合理。いろいろなバイアスや人間の認知能力の「クセ」に引っ張られているのだ。だけどそれは予測不可能なものではなく予想可能な不合理。従来、人間の理性に期待していた「合理性」の概念が理想化されすぎていたのかもしれない。


本書では、行動経済学のセンセイのダン・アリエリー氏が書いた一般向けの本。非常に読みやすく、また豊富な実験例でわかりやすく解説している良著です。

この本は人間の不合理性、つまり、わたしたちがどれほど完璧とはほど遠いのかについて書いている。どこが理想とちがっているのか認識することは、自分自身をほんとうに理解するための探求に必要だし、実用面でも大いに役立つ可能性があると思う。不合理性を理解することは、毎日の行動と決断に役立ち、わたしたちを取り巻く状況や、そこで示される選択肢がどのようにつくられているかを理解するうえでも重要になる。

非常に良かったので、印象的な部分をいくつかピックアップして紹介します。

自分の選択を合理的に「言い訳」したい欲求

誰でも経験があるのは、自分の選択を合理化しようと言い訳したくなる心理じゃなかろうか。

この本の中で、著者のダン先生が車選びをしようとしたときのことが書かれている。
質問に答えていくと、おすすめの車を紹介してくれるサイトを利用して車選びをするダン先生。結果、サイトから紹介されたのは自分の希望とは異なるミニバンタイプの車種だった。


いや、違う、俺がほしいのはスポーツカーなんだ。ということで、最初から何度もやり直して希望の車種にたどり着くように回答を行う。結局サイトからマツダのロードスターが推薦されたところで先生は満足して車を買うことにしたそうだが。

この体験からわかったのは、自分の決断がほんとうは直観、つまり胸の奥底で望んでいるものから来ている場合、わたしたちはときに、その決断が合理的に見えるように仕立てたくなるということだ。とくに重大な選択をするときは、自分のくだす決断が理にかなった慎重なものだと思いたいがために、だれでも必要以上に頭を回転させてなんとか正当化しようとするのではないだろうか。

これはダン先生の個人的な経験に過ぎないが、心当たりのある人は多いんじゃないだろうか。私自身、ものを買うときにただ欲しいから買うとは言わないで、それが必要になる理由を後づけで一生懸命探してしまうし。

これはわたしたちが合理的と考えている選択が、じつは恣意的なものにすぎないことの例であり、これらの影響を検証するために行った様々な実験結果が紹介されていて、いずれも興味深い内容です。

無料!の魅力

今この記事は出張滞在中のホテルで書いているが、このホテルWOWOWの視聴が無料なのだ。無料と言われるとなんとかして見ておきたくなってしまうもの。結局さして見たくもない映画を通して見てしまった。。。


これは無料!の魅力として紹介されており、人はすでに持っているものを失うことを強く恐れる傾向があるそうです。そのため、何も失わない「無料!」には強く惹かれてしまうのだとか。

例えば、つぎの2つの選択肢があるとき

  • 1)アマゾンの商品券10ドル分を無料で受け取る
  • 2)アマゾンの商品券20ドル分を7ドルで受け取る

2)のほうが、差し引き13ドル得をするので、経済学的に「合理的」な行動は2)が正解なのだが、実際には1)を選択する人が多いのです。

これをうまくビジネスに取り込んだのが、Amazonの配送料システム。
一定額以上の購入で配送料無料としたところ、売上が大きく伸びたのです。
ただフランスだけでは伸びなかったのですが、それはフランスでは一定額以上の購入で送料が1フラン(約20円)というルールだったから。

20円と無料は金銭的な負担はほぼ変わらないにもかかわらず、「無料」にすることで人は簡単に引き寄せられ買ってしまうのだそうです。

社会規範と市場規範 モラルと合理性の対決

社会規範とは、モラルや社会生活を行う上で守るべき道徳的規範であり、市場規範とは経済性や損得勘定のこと。

ここで述べられていた以下の例は、印象的です。

ふたりは数年前、イスラエルの託児所で、子供の迎えに遅れてくる親に罰金を科すのが有効かどうかを調査した。そして、罰金はうまく機能しないばかりか、長期的に見ると悪影響が出ると結論付けた。なぜだろう。罰金が導入される以前、先生と親とは社会的な取り決めのもと、遅刻に社会規範をあてはめていた。そのため、親たちはときどき時間に遅れると後ろめたい気持ちになり、その罪悪感から、今後は時間どおりに迎えにこようという気になった。(中略)ところが、罰金を科したことで、託児所は意図せずに社会規範を市場規範に切り替えてしまった。遅刻した分をお金で支払うことになると、親たちは状況を市場規範でとらえるようになった。つまり罰金を科されているのだから、遅刻するもしないも決めるのは自分とばかりに、親たちはちょくちょく迎えの時間に遅れるようになった。

これは「罰金=遅刻をお金で買うこと」と親たちが捉えてしまったということ。そして失われた社会規範は、罰金を廃止しても戻らず、遅刻は増えたままになってしまったそうです。

じつは自分自身にも全く同じ経験がありました。

それは2人めの子供を妻が妊娠していたときのこと。

妻が切迫早産になったため、今までまかせていた上の子の保育園への送り迎えを自分がやることになりました。そうなると会社に定時にたどり着けなくなります。

そこで時短勤務を申請したのですが、会社に認められずそのかわり遅刻・早退で処理せよということになりました。

自分の会社では遅刻早退は欠勤時間に応じてボーナスから引かれる仕組みで、今考えればきちんと時短勤務にするべく交渉したら良かったんですが当時は考える余裕もなくその提案を受け入れました。

その結果どうなったかというと、確かにそのときの感覚として遅刻・早退をお金で買い取った感覚を持っていました。

そして、その後が問題で妻の出産が終わったあとも、会社に遅刻することへの罪悪感がほとんど無くなっていたのを覚えています。

これは未だに感覚は完全には戻っていないですね。もう5年以上経つのに。まさしくこれは自分自身が体験した、社会規範が市場規範に取って代わられた例です。そしてそれを本書から指摘されたという印象です。

現金とプレゼントの差 カタログギフトはその折衷案か。

なにかのお礼をするときも、現金を渡すのは市場規範として捉えられてしまう一方で、プレゼントを渡すのは社会規範として受け取ってもらえるとか。

でも気にいってもらえるかわからないプレゼントを渡すよりも、同額のお金を渡して好きなことに使ってもらう、という考えもあると思うんですが、それがすでに経済性を重視した「市場規範」的な考え方なんでしょうね。

最近は結婚式の引出物はお皿じゃなくて、カタログギフトがすっかりメジャーですが、これは「現金」と「プレゼント」の中間をとった折衷案として人気があるのでしょう。

多くの選択肢にどう対応する?

下の引用に示されているように、現代人には昔にくらべ多くの自由があります。

一九四一年、哲学者のエーリヒ。フロムは、著書「自由からの逃走」を発表した。フロムによれば、近代民主主義において、人々は機会がないことではなく、めまいがするほど機会がありあまっていることに悩まされている。現代社会においてはまさにそのとおりだ。わたしたちは、やりたいことはなんでもやれるし、なんにでもなりたいものになれると常に言いきかされている。問題は、この理想にふさわしい生き方をすることにある。

でも選択肢を持ってしまうと、それを失うことを人は過度に恐れてしまうと指摘しています。本書中では、ゲームを使った実験でそれを鮮やかに示しています。自分にとって価値がないことが明らかな選択肢を維持するために、人がおおくの無駄を割いてしまうことを。

例えばそのようなことが人生でおこなわれるとき、下記のようなことが起きるのかもしれません。

この悲劇のべつの一面が顔を出すこともある。なかにはほんとうに消えかけている扉があり、すぐに注意を向けなければならないのに、わたしたちがそれに気づかないときだ。たとえば、息子や娘の子供時代がいつのまにかすぎてしまうことに気づかずに、職場で必要以上に働く。こうした扉は、閉まるのがあまりにゆっくりで、消えていくところが目に入らないことがある。

ある事実に対して、まったく違う見方をしてしまう人々

スポーツの試合での微妙なプレイ。どちらのチームを応援するかで、プレイの見え方が変わってしまうということはよくありますよね。

本書中では様々な実験を通して、何かを経験するにあたって事前に持っていた知識や情報が、その後の経験自体を変えてしまうということを示しています。

例えば世界的に有名なバイオリニストが、名前を伏せて街角で演奏したとき、得られる投げ銭の量は、無名の演奏家とどれだけ違うのか。

そこから逆に考えれば、有名なコンサートホールで著名な演奏家が演奏するときは?その舞台設定や前口上によって演奏に対する我々の感動も変わってくるのではないか、などなど。

これらの「事前に」与えられた知識というのはもう我々にとっては自分自身の判断から分離できないものですが、それでも確実に我々の判断に影響を与えていることが示されます。

問題は、このふたりのように、両者がかたよったレンズを通して見てきたという経緯があると、スポーツだけでなく世の中のできごとをどう経験するかもちがってくる可能性があることだ。(中略) どの争いも、双方の側の人が同じような歴史の本を読み、さらには同じ事実を教えられたとしても、だれが争いをはじめたのか、だれが責任を負うべきか、だればつぎの譲歩をすべきかなどについて意見が一致することはまずない。こうしたことがらの場合、信念への思いは、スポーツチームのどんな結びつきよりはるかに強く、わたしたちはその信念にあくまでしがみつく。そのため、問題への思いが強くなればなるほど、「真実」について意見が一致する可能性はますます低くなる。 (中略) わたしたちは、膝を突き合わせることで、装置を取りのぞくことができ、そうすればすぐにでも歩みよれると考えたがる。しかし歴史はそれがありそうにない結末であることを示してきた。

例えば、下記のエントリーにも示したように、人の認識は個々人で閉じた固有の体験の世界にとらわれており、お互いを理解するには努力が必要です。少なくともまずは、「誰のどんな判断も何らかのかたよりをさけられない」ということを認識するべきだ、とダン先生は言っています。私もそれに賛成します。だれでも偏っているのです。

私を支えてくれた、ルソーと「エミール」 ルソーは大好きな思想家です。と言っても読んだことがあるのは「孤独な散歩者の夢...

わたしたちは自分がなんの力で動かされているかわかっていないゲームのコマ

この本で紹介した研究からひとつ重要な教訓を引き出すとしたら、わたしたちはみんな、自分がなんの力で動かされているかほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう。わたしたちはたいてい、自分が舵を握っていて、自分がくだす決断も自分が進む人生の進路も、最終的に自分でコントロールしていると考える。しかし、悲しいかな、こう感じるのは現実というより願望-自分をどんな人間だと思いたいか-によるところが大きい。

まとめは、本書の終盤からの引用で締めましょう。まさに我々は自分たちのことを何もしらないまま、知っていると勘違いして生きているのではないでしょうか。

そして本書はすべてを教えてくれるわけではないけれども、自分たちの無知について気づき、考えるきっかけを与えてくれる、そんな一冊です。


あわせて読みたい本

それをお金で買いますか (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

「これからの正義の話しをしよう」で有名なマイケル・サンデルの著書。
市場規範と社会規範についてはこちらも詳しいです。