プロ野球リクエスト制度に思う「ミスを認める勇気」

プロ野球のリクエスト制度

2018年のシーズンから、プロ野球での審判のジャッジについて、不服がある場合ビデオでの再審議を要求できる「リクエスト制度」が始まった。

リクエストによって判定がくつがえる確率は集計を行ったサイトによれば2018年9月21日時点で約34%(成功156回/総試行回数455回)である。かなりの回数の判定が変わっていることがわかる。

出展:https://presidents-diary.com/request_system_summary#i-17

つまり、今までのジャッジのうち、きわどいプレーについてはそのぐらいの誤りを含んでいたわけだ。

その点、リクエスト制度が整備されることでジャッジの正確さが向上したことは多くのプロ野球ファンから歓迎されているところだと思われる。

また、審判のほうもけっして公には言えないだろうが、ミスジャッジを訂正する機会がもらえて、気分的に楽になっているのではないだろうか。

アマチュア野球の審判

一方アマチュア野球の審判では当然導入されてはいない。全ての試合でTV中継のカメラが入るわけではないので仕方がない。

また、 アマチュア野球の審判はみなさんボランティアで行われており、プロ野球の「プロの審判」とは事情が異なる面もある。ボランティアで野球の審判をやっていただいている皆様には、いつもありがとうございますとお礼を言いたい。

それでも、今年の夏の全国高校野球選手権いわゆる甲子園 ともなれば全試合TV中継があるわけで、リクエストはやろうと思えば可能である。 今回の大会でも怪しいジャッジはあり、ネット上では誤審ではないかと騒がれていた。

しかし、高校野球の場合、リクエスト以前の問題として判定に不服があっても監督は直接抗議することはできないとルールで定められている。抗議できるのは、主将、伝令の学生に限られるのだ。

しかし、高校生が審判に対して対等に抗議できるわけもない。圧倒的に高校生の立場は弱い。実際試合を見ていると、高校生たちはきわどい判定にも一切不満はださず、ただ判定を受け入れるしかないように見える。

実際、きわどいプレーで抗議が行われるとプレーが中断されるため、試合進行の妨げになるところもある。止むを得ない部分もあるだろう。

しかし、もし
下された判定に絶対従うこと、それが高校球児らしさ、それがスポーツマンシップ、それがスポーツを通じた教育であり、美徳という考えが現場にあったとすれば、そんなのはちゃんちゃらおかしいと言いたい。

審判という権威に疑問を呈さず、盲目的に従うことに何の教育的意味があるというのか。

もちろん、審判に対する敬意はいつだって必要で失礼なふるまいは許されない。

だけど審判が誤ったのではないかと自分に確信があるならば、それを問うことは全く問題ないはずだ。その結果、判定は変わらないかもしれない。だけど疑問を持った自分自身の信念を相手に問いただすことは、野球の場を離れたとしても生きる上で必要な態度である。ここにこそ、重要な教育的価値があると思うのだ。

でも、もし、ルールによって守られた「審判の権威」という幻想に従うことを、疑問に思わず人生まで何かの権威に従って生きるものと考えてしまったらそれは残念なことである。

潔く過ちを認め正すことに審判の権威が宿る

過ちを絶対に犯さないのは無理である。しかし犯した過ちを認め、それを正すことはできるはずだ。己の過ちを受け入れて訂正することまで含めて、ジャッジに責任を持つというこことではないか。その真摯な姿勢に審判の権威は宿るのだと私は思う。

孔子の言を借りれば、

子の曰わく、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。

論語「衛霊公編」

過ちを犯しても、改めない。これを本当の過ちと言うのだ。

ミスを認めることもプロフェッショナルの責任だ

長々と野球の審判の話をしたが、以上の話は全ての職業において、プロフェッショナルを自認するものであれば常に必要な心構えである。人間ミスは避けられない。しかし犯したミスを取り返すためには、ミスをした瞬間からでもできることがある。

まずは自分のミスの結果生じた問題を専門的知識や経験を生かして解決すること。これは当然だ。

それと同時にプロとしての自分の行為に問題があったことを恥じて、自分を信頼してくれた人々に謝罪すること。このとき、とりつくろったり、ごまかそうとせずに、自分の非、至らなさは全て認め受け入れるのだ。

それが、プロとして自らの仕事に責任を持つ態度であると考えるのである。