タコの知性を知り、人間の心を知る:タコの心身問題 書評

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源 哲学者である著者がタコの生態の観察を通じて、単なる物質である我々にどのようにして知性や心が生まれたのかを探る一冊。タコやイカ等の頭足類が主たる題材ではあるが、そのテーマは頭足類を一つのモデルとして、生物や人間の心の在り方を問う挑戦的な内容だ。なかなか刺激的な内容だったので、5000文字を超える分量となったが、しっかり紹介したい。

タコの心を知ることで人間自身を知る

なぜ、筆者はタコ・イカ(頭足類)を題材に選んだか。それは進化の歴史を紐解くことで理解できる。人間以外に一般的に、知性や心を持つと予想される動物はチンパンジー等の類人猿や、犬、猫等の哺乳類、鳥類、魚類等の動物だ。 これらは生物学上のカテゴリーとしては「脊索動物」(人間も含まれる、背に神経索を持つ動物) に分類される。これらは進化の系統としては、いずれも人間と同じ系統であり、われわれとの類似点を多く持つ動物と言える。 一方、本書で対象としている頭足類は、人間とは大きく異なる進化の歴史を持つ。人間と頭足類との共通の祖先は、本書によれば6億年前までさかのぼる。その祖先は海中の中の虫のような生物であり、おそらく現在の我々のような知性は持っていなかった。その後、突然変異と自然選択により種が枝分かれし、一方の枝は脊索動物となり、地上に上がり現代の人類となった。一方の枝は海中にとどまり、軟体動物として進化し全く異なる身体構造と環境の中で、進化を続け頭足類として現存している。 我々は知性や心を論ずる際に、どうしても自分自身をモデルとして理解しようとしてしまう。それは我々自身が他者の心の存在を原理上確信することができない制約のためである。他人が心を持つかどうかを直接知ることはできない。我々は他社の行動や言動を見て、自分と同じような心を持つことを「信じる」ことしか今はできない。我々は自分自身の心しか知ることができないから、必然的に自分の持つ心や知性の働きをベースに理解しようとしてしまうわけだ。 これは致し方ないことではあるが、研究の対象や手法が限定されている感は否めない。 全く違う視点から我々の心のあり方を検討することはできないだろうか。全く違う進化の枝で全く異なる身体構造を発達させた生物、しかも「心」や「知性」を感じさせる生物であれば、われわれとの比較を行うことで何か手掛かりが得られうのではないか。そこで筆者が着目したのが頭足類である。 タコやイカは、賢い動物として取り上げられることが多い。本書中にもタコやイカの行動に知性が感じられる例が多く紹介されている。
  • 特定の人物を見分け、その人物を選択して水をかける。
  • 水槽の水流を使って、物を行ったり来たりさせて遊ぶ
  • 到底食べられないような「人間」に興味を持ち、触れてみようとする。
  • 飼育されているタコは自分たちが水槽という不自然な場所にいるということも、人間がその外にいることも理解する。
  • 電球に水を吹きかけてショートさせ照明を消す。(タコは電球の光が嫌いである。)
  • 水槽の弁をあえて手で詰まらせて、水槽を溢れさせる。
  • 嫌いな餌を与えられたときに、人間と目線を合わせながらわかるように捨てる。(ように感じられる行為)
  • ココナツの殻を分解して持ち運び可能なシェルターとして利用する。
  • たとえ事物が時間とともにその外見を変えていっても、それが元と同じものであると認識できるように事物の捉え方自体を成型する、
以上は一例だが、タコは自分の意志をラットなどよりもはっきりと持ち、いたずらを好むようだと筆者は述べている。

タコとヒト:身体(ハードウェア)的な差異

そんなタコたちの心や知性を持つかのような振る舞いだが、そのあり様は人間とはどのような違いがあるのか。まず身体的な差異が紹介されているが、これがなかなか興味深い。 人間の身体は、脳によって中央から集中して制御される構造となっているが、タコの場合は脳も持っているが、神経細胞やニューロンは、身体中、特に8本の腕に分散して存在しているそうだ。腕にある神経細胞は脳の2倍であり、全身では5億個にも及ぶらしい。 これによって、タコの腕は人の腕とは異なり、感覚器だけでなく体の制御機能も持つ。触覚だけでなく周囲の化学物質を検知するいわば嗅覚、味覚を持っている。また仮に腕が切除されても、腕だけで物をつかむといった運動を制御して行うことができることが分かっているそうだ。 いわば肉体全体に脳が分散し、身体の各所と一体化しているような構造ということだ。これは8本足であり体が不定形という身体が複雑な制御を必要とすることから、獲得された構造ではないかと筆者は述べている。またこのような構造がタコが知性を獲得した要因ではないかとも推測している。 さて、こんな身体を持つタコが体を動かす「気分」はどんな感じだろう。そんなことも本書では考察している。 例えばものを取ろうとしたとき、人間の感覚に当てはめれば、物を取ろうと考えた時、ある程度まで腕を動かして行くと、後は勝手に腕が動いて自分でもどうなるか正確には分からないが、うまく物を取ってくれるという感覚かもしれない。 例えばものを取ろうとしたとき、人間の感覚に当てはめれば、物を取ろうと考えた時、ある程度まで腕を動かして行くと、後は勝手に腕が動いて自分でもどうなるか正確には分からないが、うまく物を取ってくれるという感覚かもしれない。 しかし、あくまでこれは脳からの集中制御で動いている人間の物差しでもってタコを理解しようとしている比喩に過ぎない。タコの意識のあり方は依然として謎である。正確なことはまだ分からないが、進化の枝が遠く離れた生物の知性を検討する意義はこのような点にあるのかもしれない。その醍醐味を感じられる部分である。

タコとヒト:行動の差異 非社会的な知性

一方、タコの行動の特徴から分かることは何だろうか。筆者は「社会的行動」のあり方に着目している。我々人間は社会性を持つ動物だが、頭足類は協調行動は一部を例外はあるが基本的に取らず、「社会的でない」知性を獲得した動物だそうだ。 一般的に生物学者が、動物がなぜ大きな脳を持つに至ったか分析する際には動物の社会行動に着目するそうである。複雑な社会を持つ動物はそれだけ高い知性を必要とするからだ。 しかし、タコは社会性を持たない知性を獲得した。それはなぜか。 筆者はその解として、タコの餌の採り方(採餌方式)に着目している。生物の採餌方式には大別して以下の2種がある。 1)ほとんど手を加える必要がなく、いつでも同じように入手できる餌に特化したタイプ
:昆虫を食べるカエルなど。 2)状況に応じた判断、取捨選択を必要とする餌の採り方。
:チンパンジー 木の実、種、巣の中にいる白アリ それぞれ食べ方を工夫しないといけない。 ここに「社会的でない知性」に至る鍵があると筆者は指摘する。
タコは非常に社会性が高い動物とは言えない。少なくとも通常の意味では。他のタコと関わるのに長時間を費やすことはないからだ。だが、捕食者であることから、被食者となる動物とは長く関わることになる。それも見方によって一種の社会的行動と言えなくもない。 (ピーター・ゴドラリー・スミス「タコの心身問題」)

タコはタコ同士での関係を持たない。だがタコは、カニや、ホタテ貝、魚や同族のタコなど様々な生物を餌として狩る。その中には殻を持つなど食べ方を工夫しなければいけないものも多い。たとえば2枚貝が生息しない地域のタコを飼育するときに餌として二枚貝を与えると、最初は食べ方が分からないが、工夫して貝をこじ開ける方法を見つけて食べられるようになるそうだ。このような狩猟や採餌の方式が知性を産んだカギではないかと著者はにらんでいる。 ここでは、タコは異種族との狩猟を通じての濃密な社会生活を営んでいるということが示唆されている。様々な特徴を持つ餌に対して、その種別を判別し適切な手段で狩り、それを食物として食べられるように加工する、ということは被食者と捕食者の「コミュニケーション」の一形態であるということだ。 ここでも、知性や社会生活を理解するにあたって、人間のそれを前提とした解釈に縛られていることに気づかされる。印象に残る部分である。 ところで社会性を持たないとされるタコだが、一部の地域に棲むタコにはタコ同士の関係性が見られるそうだ。筆者はその海域を「オクトポリス」と呼び調査を行っている。本書の最終章はその調査結果の紹介となっている。 我々の命のスケールでは到底見ることができないが、遠い未来のタコがどのような生物に進化しているか、とても楽しみになる内容である。ここは是非本書を手に取ってごらんになっていただきたい。

人の恣意性、人間中心主義

本書の訳者である夏目大さんの訳者あとがきにも記されているとおり、本書は人間の存在を相対化して考えるきっかけを与えてくれる本であると思う。我々は自分自身が人間であることに知らず知らずに執着し、人間自身を過大評価し、人間中心に生きているという事実がある。 たとえば、「人間は万物の霊長」といったような言葉がある。この本を読まれるような方は、賛同しない言葉と思われるが。本書の中でもごく最初の方で次のように指摘されている。
あなたや私は、この木の最上部に位置している。進化の歴史を振り返るとは、この木を上から見下ろすことだ。ただ、私たちが最上部にいるのは、現存している生物だからにすぎない(最も優れた生物だからではない点に注意)。人類だけでなく、現存する生物は皆、同じ高さに位置している。 (ピーター・ゴドラリー・スミス「タコの心身問題」)
進化の系統樹に対して、人類がどのような位置にいるかについての指摘だ。現存する他の動物に対して、下等とか高等とか言う指摘はまったくもってナンセンスである。生物学上の分類の表記としてはあり得るが、それを一般的な意味として誤解してはいけない。 生命誕生以来38億年、ともに自然選択を潜り抜け生き残ってきたのは現存するあらゆる生物にとって同様だ。どのような身体や生き方であってもそのことに差はない。人間が自分自身に与えてきた絶対的な価値は、この視点の前に相対化される。 話がそれるが、このような相対化の思想としては私が感心するのは中国の「荘子」の万物斉同の思想である。荘子と言えば、「胡蝶の夢」が有名だが、ここはそれ以外に下記を挙げたい。
斉物論編 第二 (前略)毛ショウや麗姫(りき)は、人はだれもが美人と考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。この四類の中でどれが本当の美を知っていることになるのか。(荘子 岩波文庫 金谷治 訳)
毛ショウや麗姫(りき)は荘子の時代に絶世の美女とされた女性である。ところがそれを美女とみなすのは、あくまで人間だけである。魚や鳥や鹿は、彼女らを見て逃げ出すだろう。価値観というものは絶対的なものではなく、相対的なものに過ぎないことを鮮やかに示している。このような思想に紀元前のうちに達しているとは恐れ入谷の鬼子母神である。
さらに相対化を進めれば、生物・非生物の垣根も取り払われる。例えば機械は心を持つか、という問題は今後のAIの発展を考えれば非常に重要な問題となるだろう。「タコの心身問題」でも触れられているが、例えば脳の構造が複雑になっていくことで、知性が獲得されるのであれば、どんなに単純な生物でも、たとえごくわずかとは言え、知性や心を持つのではないか、という立場がある。 アメリカの哲学者チャーマーズは「サーモスタット」という電気部品でさえ意識を持ちうると述べているそうだ。サーモスタットは常温では電気的接点が閉じている(スイッチONする)が、ある温度以上になると接点がオープンする(スイッチOFFする)というごく単純な部品だ。 ヒーター等の過昇温防止に使用される部品だが、外界の変化に応じて、電気的接点を操作するのは、我々の脳内でやり取りされている電気信号処理の、一番シンプルなモデルと言えなくもない。もし心の発生が連続的なものであれば、このような機械部品にも心が宿るかもしれない。一寸の虫にも五分の魂ならぬ、サーモスタットにも五分の魂と言ったところか。 私の本業は理化学装置の開発者であり、自分が手掛けた装置に意識があるというのはワクワクするところでもある。でも失敗作をお釈迦にするのはやりづらくなるかも。
意識する心―脳と精神の根本理論を求めて ちなみにこの本はとんでもなく分厚い本で、かつお高い。私の住む地域の市立図書館に置いてあるので借りて済ませたいが、とても貸出期間で読めそうにない。。。

1~2年でこの世を去る頭足類への切なさ

脱線したが、「タコの心身問題」に戻る。 結局本書ではタコを題材に他我問題に対して迫ったが、それでも他者の心を直接見られない、という制約からは逃れられず、筆者の挑戦はまだ半ばと言える。今後の調査に期待したい。それでも本書を読んで私の個人的な頭足類とのかかわり方には「心」の存在を前提とした微妙な変化が生じたようだ。 本書の第7章は、頭足類の寿命の謎について述べている章である。これだけの高機能な神経系を持つ頭足類だがその寿命は1~2年と短い。7章の最後には、あるイカがその寿命を全うする瞬間が記されているが、なぜかその姿にとても胸を打たれる。 それを読んでいるとき、今までタコやイカに感じたことのない、「切なさ」「愛しさ」を覚えていることに気づいた。この感情の正体はよくわからないけど、これはこの本を読む中で頭足類の「心」を感じて感情移入をしているためかもしれない。 本記事中でも述べた通り、我々は人間同士であっても他者の心の存在を直接確認することはできない。それは信じることしかできないものだ。ならば逆に我々は信じることで、相手がイカやタコであっても「心」を持つ生き物として振る舞うことが可能だ。私が感じた儚い寿命の頭足類への切なさは、私自身がすでに頭足類に「心」があることを認めている証拠なのかもしれない。