読書百遍義自ずから見る、は本当か 検証した論文を読んだ

「読書百遍義自ずから見る」あるいは「読書百遍意自ずから通ず」という言い回しがある。もとは三国志に出てくる言葉だそうだ。

例え意味が分からない文献であっても、数多く読み通すことで自然と意味が理解できるようになるということを指す。江戸時代の寺子屋で行われた、「論語の素読」という教育はまさにこれを地で行くものであった。

しかし、単に繰り返し読むだけで理解が進むようになるのだろうか。うさぎ跳びでグラウンド百週のようなスポーツ根性的な精神論に過ぎないのではないか、と疑問に感じるところもある。

そんな疑問に応えてか、「読書百遍」式の実地調査を行った方がいた。

「読書百遍義自ら見る」は正しいか
田中裕 神戸山手短期大学 生活学科
神戸山手短期大学紀要 2006

https://ci.nii.ac.jp/naid/110006408205

上記のリンクをたどると、原文のPDFがダウンロードできる。平易な日本語で書いてあり分量も多くないのですぐ読める。興味深い内容なので、ここに紹介したい。

概要

著者は大学の講義において、デカルトの「方法序説」を題材として、予備知識のない学生に30回の音読を行わせ、各回での朗読の習熟度(流ちょうに読めるか)と、内容の理解度を自己評価で採点させた。また、30回終了後に本の内容についてのレポートを提出させた。

その結果を筆者は下記のように述べている。すなわち、大まかな傾向として、音読の回数が増すにつれ朗読の習熟度が増加し、それに続くように内容の理解度も向上した結果が得られた。また、あくまで自己評価である「朗読の習熟度」、「内容の理解度」だけでなく、終了後の学生のレポートを評価すると、「自分の言葉で書かれた」レポートで確かに内容を理解したとうかがえるような内容だった。

これにより、筆者は「読書百遍義自ずから見る」は正しいと結論付けている。

いつでも成り立つとは限らない?

私としては「読書百遍義自ずから見る」が成立するには対象とする文献には条件があるかと思う。

それは最低限の文法や言葉の理解が必要であるということだ。今回使用したテキストはデカルトの「方法序説」であるが、近代哲学における一番最初のとっかかりとなる文献である。その内容は基本的には基礎知識なしで自分の頭で考えれば理解できる内容である。事実デカルトも自分の頭で考えたことだけをベースにこの本を書いているわけだ。

これは哲学という学問の特徴として、人間に普遍的に存在するような本質を求めて学問するため、だれでも考えたり自問自答することで、その主張を確認できるところに基礎を持つためである。

よって、その用いられる用語や言い回しが難解であっても、その言わんとするところ自体は自分の経験や思考によって確かめ可能なものであり、だから「読書百遍義自ずから見る」が成立するのであろう。

江戸時代に行われた「論語の素読」も論語は社会の中での行動規範や倫理に関わる内容を扱っているため、社会生活を行う中で自分でも経験したり見聞きしたりできる問題といえる。このため「読書百遍」式が成立したと思われる。

これが物理学の実験報告や、数学の証明、あるいはまったく触れたことのない外国語の文献であればどうだろうか。やや極論と思われるかもしれないが、これらの場合「読書百遍義自ずから見る」は成立しないだろう。

なぜこんな例を挙げたかと言うと、この「読書百遍義自ずから見る」の話題において、このあたりの考え方に誤謬がある例が見受けられるからだ。

よくあるのは、プログラミング言語の学習において、「読書百遍」ではないが、とにかくお手本となるソースコードを意味が分からなくてもいいから手で打って書き写せ、というような例だ。

これに対して、それは効果があるだの、効果がないだの議論があったりするが、これは先の話からしてある程度の基礎知識が身についていなければ、効果はないということになろう。逆に基礎知識があればそのような作業の反復によってスキルアップすることは今回の結果からも十分期待できるのではないか。

このあたりをごっちゃにしていては話がかみ合わないのでは、と横から心配してしまう。

「理解」するってどういうこと?

他、本研究で難しい点は「理解」をどのように評価するか、というところだろう。

自己評価で理解度を評価しているが、高評価でも理解したつもりということもある。その点、最終的な学生のレポートは先に述べた通り「自分の言葉」で書かれていたということは注目に値する。ある程度自分の頭で文献の内容を咀嚼しなければ、「自分の言葉」で書くのは難しいからだ。

一方、低評価でも理解できていないとは限らない場合もある。少しでも腑に落ちない箇所があれば、それをもってして低評価とする場合もあろう。また、文献の内容は「理解」したが、デカルトの主張に「納得」しない学生もいたかもしれない。しかし自分が「納得」できない理由を文献を「理解」していないためだと錯誤した可能性もあるのではないか。

またそもそもデカルトの思想を理解したかどうか、だれが判定できるのか、という問題もある。これは哲学研究者でも意見が分かれるところで、それはもう本研究の対象範囲ではないが。

何度も読むと理解できるってどういうこと?

最後に、筆者は「何故何度も読むと理解ができるか」を考察している。それによれば、まず「理解した」と感じる原因として下記の仮説を挙げている。

理解したと感ずることができるのは全体像を持っており、それにもとづいて部分を位置づけることができる時である。(田中裕 「読書百遍義自ずから見る」は正しいか 2006)

読書の回数を重ねることによって、文献の全体像がはっきり見えてくること、また現在読んでいる箇所がどの部分にあたるのか、自覚できることが、「理解」の感覚の本質である、という仮説である。

私の実体験上も難解な本であっても、わからないところがあっても何とか読み通し、全体の見通しを持ってから再度読み直すことで2度目は理解が深まる、ということがある。納得できる指摘である。

読書法の名著「本を読む本」にも、難解な本を読むときには、半分ぐらいしか理解できなくても、とにかく一度読みとおせ、と指摘されている。2度目に読むときには全体の見通しが見えるから理解が進むようになると。

「本を読む本」は、「読むに値する良書を知的かつ積極的に読むための規則」について述べた本である。 キーワードは「積極的読書」。良く整理・体系化された名著であり、読書家を自認するならぜひ読んでおくべき一冊。

また、ショーペンハウエルも名著は2度読め、何度でも読め、と書いているが、それもやはり繰り返し読むことで思考が整理され理解がすすむことを期待してのことだ。

哲学者 ショーペンハウエルの書いた、読書するにあたってのガイドブック。とにかく自分で考えることの大切さが巧みな表現で繰り返されている。たくさんの出版物や情報がある中で、どのような本を読むべきかの指摘は、情報があふれる現代でも重要な課題。

結びには、今後、今回提示した仮説が正しいかを明らかにする必要がある、と述べられている。その後この研究がどのように進展したかは知らないが、個人的には興味がある話題である。すこし調べてみようと思う。