書評:科学と非科学 その正体を探る 中屋敷 均

科学と非科学 その正体を探る (講談社現代新書)

筆者はウイルス等を専門とする生物学者。題名からして科学哲学の本である。そして実際科学哲学を扱っているのだが、根底にあるのは、科学をどう扱うかということを通じて、「我々はこの世界でどうやって生きていくの?」という実存的な問いだ。

構成としては、14話のエッセイから成る。それほど専門的な話はなく、かなり読みやすい内容だ。また、文章が非常に美しく感じる。感傷的な雰囲気もある。ちょうど仕事で若干心身共に参っていたときに読んだためもあるかもしれない。正直涙が溢れるほどに感動した。これはルソーの「エミール」を始めて読んだ時の以来の衝撃かもしれない。

そんな自分史上1、2を争う感動を与えてくれた本書の内容を簡単に紹介したい。

科学と非科学の間

筆者による科学の本質とはつまるところ反証可能性である。反証可能性とは科学哲学者のカール・ポパーが提唱する理論で、理論に含まれる不完全性や誤りを、理論に一致しない反証を上げることで訂正していくような制度となっているかどうか、に着目した分類だ。

根拠となる現象が神秘性をまとって秘匿されていたり一部の人間しか確認できない。
再現性の検証ができない。
客観性ではなく、「生命は深遠で美しい」と言った主観に基づく主張である。
批判に対して答えない、批判を許さない。

こういった内容では反証することは難しい。

間違いがわかれば修正すればよい、それを受け入れる土壌があるのか。どういった問題を扱うか、ということではなく、それに関わる人間が、「どのように」その問題に取り組むか、その姿勢が科学と非科学を分ける、と著者は指摘している。

間違いを内在し、それを訂正することで、環境に適したものに修正・選択されていく営み。生命との類似。つまり間違うことは前提としてある。そして変わっていくことが科学の重要な要素であると。科学理論を絶対視し、権威主義・教条主義に陥るならば、それは科学の否定である。

実存哲学としての本

科学哲学としては、科学の本質が反証可能性である、という主張は一般的と思う。これだけであれば、ただの科学エッセイ集であるとも言える。しかし、本書の特徴は、科学の本質が、間違いを内在し、それを認めて乗り越えていく営みと、踏まえた上で、我々はこの世界と何を信じて、どのように向き合うべきか、という問題意識だ。

骨壷のエピソード

エピローグに紹介されているエピソードが印象的だ。

ある春の日、ひさびさに実家に帰省した筆者が、たまたま祖母の墓参りに行った。業者がお墓の手入れをしているようで、骨壷が取り出されて置いてあったが、お昼休憩のためか、あたりには誰もいなかった。

泥だらけになっている骨壷を見て、ふと綺麗にしてあげようと思った筆者は、手にしていたペットボトルの水をかけて、泥汚れを手で拭うようにして落としていった。

ようやく汚れを落とした筆者は骨壷を、お墓の上に置いた。そのとき、異変が起こったのだそうだ。

なんと骨壷の蓋がカタカタと震えだしたのだ。それはあたかも、亡くなった祖母が「ありがとう」とお礼を言っているようだった、と筆者は記している。

一方で、筆者は生物学者であり、科学的な思考のプロでもある。いわゆる科学的な解釈をも同時にしている。

地下から取り出された骨壷に水をかけることで、蓋と壺の間がふさがれた。地中と地上との寒暖の差が激しい春に、外に出された骨壷の中の空気は、外気で暖められるとともに、筆者の手の体温によっても温められ膨張した。膨張した空気が外に逃げる時に蓋を揺らしたのだろう、と。

そこに科学も非科学もない。僕にとっては、あの時、感じた「おばあちゃんが喜んでいる」ということが、僕の人格の一部を形作り、僕の人生の糧となっている唯一の記憶なのである。決して「温めた空気は密閉すれば膨張圧力を生みます。」というような科学的な真理で、置き換えられるものではない。

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」とは言うが、たとえ正体が枯れ尾花だろうが、なんだろうが、「幽霊を見た」当人にとって、「幽霊を見た」その経験は揺るぎない事実なのである。その時に感じた感情は、その人のリアルな経験なのだ。そしてそうした経験の連続により私たちの人生は形作られている。そこは、科学、非科学でなく尊重したい、と改めて思った。

実は、この話を聞いて私自身も思い出したことがある。祖父の葬儀の時のことだ。

祖父は老衰で亡くなったため、亡骸は傷もないきれいな状態であった。火葬場にて焼かれる前最後のあいさつをする際も、今にも動きだしそうに見えた。そこには、まだ祖父の人格が宿っているようにリアルな感覚を覚えた。

いよいよカマドに入れられる時、自分の父親が祖父に「行ってらっしゃい」と声をかけたのが妙に印象に残っている。

そして、火葬がおわり、骨を拾い上げる段となった。私の中ではまだ祖父との別れの感傷的な空気を感じながら、骨になった祖父と対面した。

その時の感情は、よく覚えている。骨になった祖父はもう祖父の人格は宿していなかった。それはもはや、ただの無機物と言うか、物質に過ぎないように思えた。

焼く前と後でのこの感覚の違いは何か。そのとき自然とこう感じられた。焼く前の亡骸に宿っていた祖父の人格=魂は焼くことで失われた。それは焼くことで地上から、天上の方に登っていったのだ、と。

一方で、私もその時すでに大学で工学を専攻していた学生であった。魂云々を素直に信じるような年でもないし、科学的には魂の存在を証明できないことも当然わかっていた。それでも、自分が感じた素直な感情は忘れられない。

結局そのとき私が出した結論は下記のようなものだった。

魂は科学的には説明できない概念だ。そしておそらく魂は存在しないと、理性は告げている。だけれども、私の感覚は、魂の存在を感じている。きっとこの感覚を説明するために、人々が生み出したのが、宗教だったんだと。だから宗教は人々に求められているんだと。そう思った。

骨壷のエピソードはその時の自分自身の思いを掘り起こしてくれた。深く感銘を受けた部分である。

意志ある選択 そしてこの世に「形」を生み出す

間違うこと、そしてそれを正すことが科学の本質。盲信するのではなく、自分が生きていくための考える材料として、科学をとらえてみてはどうか、と筆者は述べている。

科学理論への盲信ではなく、科学や、それに基づく理論の原理的限界を踏まえたうえで、科学的知見を材料として自分の人生の選択をすること。それを筆者は自分の両親らの選択に学んだと言う。

筆者の母親が肝炎になったときのこと。当時の科学的治療方針に納得できなかった、両親は自分たちで情報を調べて、ある治療法に活路を見いだした。結果的にはそれが、母親の命を救うことになったのだと言う。

両親は、命を懸けた選択を、自分たちの外にある「常識的な理」に頼るのではなく、それに関する情報を集め、自らの内なるもので作り上げた「意志ある選択」をした。その苦悩の末の勇気、それを思う。

それはいつでも、どんな肝炎患者にも勧められる方法ではないかもしれない。でも他ならぬ当事者の両親が考えた上の選択であった。権威に頼るのではなく、自分たちで考え抜いた結論であったのだ。

生きていく上で、はっきりとした正解などない事の方が多い。その時に自分自身が納得して生き、死ぬためにはどうすれば良いのか。それをあらためて考えさせてくれるエピソードだった。

そして、もう一つ、この世に「形」を残す事。自分が生きることを通じて、社会と関わりあう中で、お互いに結びつきが生じる。それを筆者は「形」と呼んでいるが、それはあなたがいたからこそ、世の中に生まれることができたんだよ、と説いている。それは、恋愛かもしれないし、アイドルに夢中になることかもしれないし、文学や芸術作品かもしれないし、科学的な業績かもしれない。

「星の王子さま」の中で、王子さまと出会ったキツネは、世界でたった一匹しかいない、「黄金色に輝く麦畑を見て王子さまの金髪を思い出すキツネ」になった。筆者はそのキツネを例に挙げて次のように言う。

愛着を持つことは世界に偏りを作ることである 。世界にいるすべてのキツネをどれも同じというのでなく 、その一匹と特別なつながりを持つことで生じる偏りが 、その歪みが 、 「形 」を 、そして 「世界 」を作り出すのだ 。そして 、それはあなたとキツネが出会わなければ 、この世に生じない新しい 「世界 」であり 、そのことで世界は少しだけ切り拓かれ 、豊かになっていくのだ 。

偏愛からなる爪痕を残す。ちっぽけでもいいから、社会と向き合って、あなたの爪痕を残していけと、そう背中を押してくれた気がする。

併せて読みたい

同じく生物学をテーマとした新書としては、福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」が超有名だ。

生物も無生物も、それを構成する原子は同じものなのに、生物と無生物のあいだを、どのように区別できるのか。本書では、この難問に対して、人の生命観の変遷を生物学の歴史とともに振り返りながら、著者の主張する「動的平衡論」について解説している。

そう言えばこの作品も文章が美しいと思う。