書評:法句経講義 友松圓諦「自己を措きて誰に寄辺ぞ」

法句経講義 (講談社学術文庫)

法句経とは、仏教の経典の中でも最古にあたるもので、ブッダの思想が強く現れている仏典である。今でこそ、広くその内容も知られているが、日本においてその普及に一役買ったのは、仏教学者の友松圓諦先生が昭和9年にラジオで行った15回の「法句経講義」であった。その講義の反響は凄まじく、たくさんの手紙が放送局に寄せられたという。

本書は、その講義の内容に加筆修正して出来上がったものである。初版はラジオの放送と同じく、昭和9年(1934年)と今から80年以上も前の本であるが、法句経の奥深い魅力を、語りかけるようなやさしい口調で丁寧に解説したその内容は今でも輝きを失わず全く古びることがない。

現代の日本人においては、宗教的な意識は失われて久しいと思われる。神道にしろ、仏教にしろ、キリスト教にしろ、ごった煮状態で時期折々のイベントを楽しむだけ、という有様ではないだろうか。

しかし、本書を読むことで、ブッダの最も初期の言葉に触れ、仏教の原点の精神を知ることで宗教のなんたるかを感じ取ることができる。それは、いわゆる「苦しい時の神頼み」であったり、「弱い人がすがるもの」と言った現代日本におけるありがちな「信仰」のイメージを一新させる厳しさを持つものである。

私も初読の際は、かなりの衝撃を受けたその内容のうち、エッセンスとなる一編として、

第九講「自己を措きて誰に寄辺ぞ」

を紹介したい。

おのれこそ、おのれのよるべぞ

おのれこそ
おのれのよるべ
おのれを措きて
誰によるべぞ
よくととのえし
おのれにこそ
まことえがたき
よるべをぞ獲ん


まことに、自己(おのれ)こそ自己の救護者(すくいて)である。いったい、誰がこの自己の外に救護者となりうるものがあろうか。よく制せられたる自己こそ、吾らは他にえがたき救護者を見出すことができる。

友松圓諦「法句経講義」

第九講は、法句経の160番目の言葉である。

「自分以外に、この世界に頼れるものは無い。よくコントロールされた自分を信じて我々は生きていくしかない。」

敢えて現代語で意訳すると上記のようになろうか。友松先生も書かれているように、非常に強く厳しい言葉であり、また凛としたブッダの姿が目に思い浮かぶ言葉でもある。

思えば、我々は、生きる上でさまざまな「寄る辺」を求めてしまうものである。

例えば、財産。しかしどんなにたくさんの財産も失わないとは限らない。自分の大事な両親、子供、配偶者や親類、知り合いも、自分の頼りになるときもあろうが、失われてしまうこともある。

子供の頃は、自分の両親が絶対的な存在であり、寄る辺となってくれる。しかし、成長するにつれ、自分の良心も完全では無いことを知っていく。また年老いて弱っていく姿を見れば、今度は自分が両親の寄る辺であることに気づかされる。

学生や社会人なら、最初は学校の先生や上司が絶対的な存在であり、困った時はまっさきに相談する寄る辺となるかもしれない。しかし、いつか世の中で自分自身の役目を果たそうとした時、先生や上司であっても正解がない問題を解く時が来るものだ。その時、自分こそを寄る辺として立っていかなければならない。

さらに、友松先生はこんな指摘をしている

それどころか、吾と頼む己れの身体が、病いのためにさいなまれて己れを裏切ってくる。ほんとうに自分の身体にも信頼できない。

(中略)

「なに、どんなことがあっても平気だ、もし困ったら梶棒でもにぎる気だ」とじょうぶな者は言えましょうが、病の人には、病気のその身体に一つも「りきむ」寄辺がない。

友松圓諦「法句経講義」

自分だけが頼り、というと、つい自分の肉体が頼りと思ってしまいがちである。しかし自分の肉体すらも頼りにならない場合が人生には往々にして起こりうるのである。

さて、その時に頼りになる「己れ」とは一体何か。それは本書によれば、独りよがりの己れではなく、世の中のさまざまな事象をよく知った上で培った、自分自身の確固たる良心、極端に走らず中道をいく良心、ということである。

しかし、そんな良心が一朝一夕に、普通の生活をしていて手に入るものではない。それは「よく制せられた」生活を通じて始めて見えてくるものである。それが仏教における自分自身の修養であり、修行の道ということであり、仏教を信心するということなのだろう。

法句経の原典は下記の一編から始まっている。

意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち
諸法(すべて)は意(おもい)に成る
意(おもい)こそは諸法(すべて)を統ぶ
けがれたる意にて
且つかたり 且つ行わば
ひくものの跡を追う
かの車輪のごとく
くるしみ彼にしたがわん

友松圓諦「法句経」

これは、本書とは別に友松氏が手がけた「法句経」の全訳版からの引用である。私が勝手に意訳すれば、下記のようになる。

世の中のあらゆる物事は、全て自分の心に映し出されるイメージである。自分の心が物事をどう感じ取るかが、世の中の全てを統御しているのだ。もし心をコントロールすることができずに、生きることになれば、あらゆる物事が自分のストレスとなって、自分の後ろを付き従うだろう。

まさしく、よく制せられたる自己を持つことで、人生の苦難を乗り越えることができる。困難を前にして、頼れるのは自己の精神のみ、という「自己を措きて誰に寄辺ぞ」につながる内容だ。

しかし、繰り返しになるが、そのような自己を得るには、自分を深く見つめ、自省した態度で生きることが必要だ。決して簡単な道ではない。念仏を唱えることで、極楽浄土に行けると謳った後世の仏教とは異なる、厳しい態度が見て取れる。このあたり、ブッダの思想は宗教ではなく、一種の哲学と言われる所以であろう。

本書は、このようなブッダの厳しくも魅力溢れる教えについて、「法句経」を題材に解説してくれる名著である。ブッダの思想はかなり、過激な部分もあり、個人主義的なところもあるが、友松先生の語り口は非常に柔らかく、氏のお人柄がうかがえる内容でとても魅力的だ。煩悩の多い、現代社会に生きる我々も、今手にとって読むべき一冊であろう。

なお、友松先生による法句経の全訳は、同じく講談社学術文庫から出版されている。こちらもまた素晴らしい。

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