コウガイビルと環世界 ユクスキュル: 生物から見た世界

「客観的に記述されうる環境というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに「現実に」存在しているのは、その主体が主観的につくりあげた世界なのであり、客観的な「環境」ではないのである。」

ユクスキュル著「生物から見た世界」 訳者(日高敏隆)あとがきより

コウガイビルの見る世界

個人的に気になる生き物に、「コウガイビル」という生き物がいる。皆様はご存知だろうか。

コウガイビルとは扁形動物の一種である。体を2つに切断すると、そのまま2つの個体に分裂する、プラナリアという動物は比較的有名だが、コウガイビルはその近縁で陸生のプラナリアである。

会社の通勤路に、緑豊かな崖地がある。会社の行き帰りには少し地面を気をつけて歩けば比較的簡単に見つけることができる。遭遇した個体を写真に納めたのが下の画像である。

頭の先端は半円形みたいな形。体には細い3本の線が入っている。「ミスジコウガイビル」という種類である。

ヒルと名が付くがいわゆる血を吸うヒルは環形動物で、全く異なる種類で血は吸わない。また、コウガイビル=「公害ビル」ではない。昔の女性が使用した髪飾りの「笄(こうがい)」に頭部の形状が似ているためコウガイビルという名前になっている。

特に人に害は与えないが、人の生活圏に割と近いところに住んでおり、成長すれば1mぐらいの長さにまで大きくなるため、気色悪がられていることが多い。

下記の文献に、コウガイビルの詳細な解説図と解説が載っているので、引用して紹介したい。

早崎峯夫 「偽寄生虫 コウガイビル」日獣会誌 65 731 ~740(2012)

http://nichiju.lin.gr.jp/mag/06510/a4.pdf

早崎峯夫 「偽寄生虫 コウガイビル」日獣会誌 65 731 ~740(2012) より引用

扇型の頭部を先頭にしてヌラヌラと地面を這ってすすんでいくが、イメージに反して実は東部に口は無い。体の裏面の中央に、口と肛門を兼ねた口器という器官があり、食べたり出したりするらしい。移動速度は1分間に2m程度と言うことで、意外と早い。実物を見ていると、ナメクジやカタツムリなどよりは明らかに早い程度である。視力はほとんど無いようで、はっきり目とわかるものは認められないが、眼点という器官で明るさはわかるようである。

この、コウガイビルがどうして私を惹き付けるのか。それは、自分とは全く異なる身体を持つ、コウガイビルが一体何を感じて、どうやって生きているのか。決してわかりえない事ではあるが、その問題についての欲求。

コウガイビルは江戸川乱歩の芋虫の夢を見るか?

コウガイビルを始めてみたとき、江戸川乱歩の小説「芋虫」を思い出したことを覚えている。読んだことのない方も多いだろうから下記にあらすじを紹介する。

戦争にて両手両足、聴力も言葉を喋る事も出来なくなった夫を持つ、主人公の女性。その女性は無力な夫を虐げて快感を得るという趣向があった。あるとき、主人公は、夫のほぼ唯一の感覚器官である目が、あまりにも純粋であることを恐れ、その目を潰してしまう。

両手両足を失った上に、聞くことも喋ることも見ることもできない姿はまるで巨大な芋虫のごとき有様。というなかなかグロい小説である。その小説に描かれた「夫」の姿を、目を持たずにヌラヌラと這い回るコウガイビルを見たときに想起したわけである。

しかしそのような見方は妥当と言えるだろうか。すなわち人間が通常持つ知覚能力を取り除かれた、いわば人に比べて劣った存在としてコウガイビルを考えることは妥当なのか。コウガイビルの生きる世界と、人間の生きる世界を比較することはそんな簡単な作業で済む話だろうか。そこでヒントとなるのが、ユクスキュルの記した「生物から見た世界」である。

ユクスキュル 「生物から見た世界」

ユクスキュルの「生物から見た世界」は、生物学者である筆者が、人間も含めた動物たちの世界の認識や、環境の捉え方について、「環世界」というアイデアで解明を試みた一冊である。

「生物から見た世界」は、この世界に生きる生物個々が持っている主観的な世界観をめぐる旅について記したガイドブックである。それはまた、我々自身が客観と思っている世界観が実は、只の一つの主観に過ぎないことを教えてくれる旅でもある。

環世界:マダニの暮らす世界観

「環世界」とはどのようなものか。環世界を巡る旅は「マダニ」の生態から始まる。
マダニはいわゆるダニの一種で、哺乳類の血液を吸うことで栄養を得ている。

ユクスキュルが注目したのは、獲物を見つけ吸血に至るまでのプロセスである。マダニには目はなく、体表面で光を感じ取る程度しかできない。また聴覚も無い。よって人のように目や耳を使って獲物を見つけることはできない。その代わりにマダニが使用するのはまず、嗅覚である。マダニは近場の適当な木にまずよじ登る。そして、哺乳類の皮膚線から漂い出る酪酸の匂いを待つ。

酪酸の「におい」がしたら、それは近くに獲物が来ているシグナルである。この信号を頼りに、マダニはまず木から飛び降りる。続いてダニは飛び降りた場所の「温度」を感じ取る。飛び降りた先が温かければしめたもの。首尾よく哺乳類の体の上に着地した可能性が高い。次にマダニは、体表の「触感」を用いて毛の少ない箇所を探し出し、哺乳類の皮膚表面へと移動していく。なるべく毛のない場所まで到達できたら、あとは獲物の皮膚にかぶりつき体液を吸い取れば良い。

まとめれば、下記のようになる。

  • 「酪酸の匂い」で、温血動物の接近を認識。
  • 「温度」で哺乳類の上に着地した事を認識。
  • 「触感」を頼りに体毛の中を移動し、皮膚上に到達したことを認識し、吸血を始める。

哺乳類を見つけるために有効な哺乳類の特徴は無数にある中で、マダニはこの3点のみを頼りにして、生きているのである。視覚に頼る人間からすれば、このようなやり方は、まどろっこしく思えるし、嗅覚や、温度感覚、触感のみで構成される世界像というものは想像することも難しい。しかし、マダニはそうして得られた世界像の中で、十二分に生活することが可能なのである。

そこでたいへん不思議なことがおこる。哺乳類の体に由来するあらゆる作用のうち三つだけが、しかもそれらが一定の順序で刺激になるのである。ダニをとりまく巨大な世界から、三つの刺激が闇の中の灯火信号のように輝きあらわれ、道しるべとしてダニを確実に目標に導く役目をする。(中略)
ダニを取り囲む豊かな世界は崩れさり、重要なものとしてはわずか三つの知覚標識と三つの作用標識からなる貧弱な姿に、つまりダニの環世界に変わる。だが環世界のこの貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。

ユクスキュル「生物から見た世界」岩波文庫p.22

このようにマダニの持つ、ハードウェアに根ざしたマダニが主観的に捉える、嗅覚、温度、触感から編み出された世界像がマダニの「環世界」である。

この一節を読めば、我々が捉えるところの“客観的”世界像は非常に主観的な物であることが理解できる。

我々の世界を構成する、「光」や「音」にしてみても、人間の体のハードウェアが持つ制約から生まれた恣意的な分類に過ぎない。多種多様な波長がある電磁波のうち、人間の目で捉えられる波長範囲のみを「光」と呼んでいるのであり、紫外線、赤外線、マイクロ波、X線、etcと可視光の間に本質的な差はないのだから。我々は、夜目が効く動物や、“超音波”を使って世界を捉えるコウモリなどに驚いてしまうが、それは彼らと我々の環世界が異なるというだけの意味でしか無く、そこにどうしても驚きを感じるのは自分たちの認識する世界、認識できる世界のみを絶対視して生きているために他ならない。

なお引用部には「豊かな世界」という表現があるが、世界が豊かであるとか、貧弱であるとかは、人間の立場から見た勝手な思い込みに過ぎないことに注意しよう。「豊かな世界」とは単に読者への説明のためのレトリックである。何なら人間にはマダニが持っている、哺乳類の体臭を捉える豊かな嗅覚による世界が欠けているとも言えるのだから。人がそれを豊かと言おうが、貧弱と言おうがマダニは、生命がこの世に誕生して以来、現在に至るまで確実に生命を受け継いできた。人がそうしてきたのと全く同じ期間を立派に生き残ってきたのである。

彼らは、嗅覚、温度、触覚の3点セットで構成される世界に全く不便は感じないし、疑問も持たないだろ。(それだけの知能は持たないだろうが、仮にもっていたとしても、だ。 ) それ以外の世界が存在するなどと言うことも微塵も疑わない。それは、我々人間が、自分の認識手段や生活する世界に疑問を持たずに当然のものとして受け入れて生きているのと全く同様に、である。

環世界の組み合わせによる世界は構成される

このような環世界の存在を念頭に世界を見てみると、世界に生きる多種多様な生物は、客観的な「世界」という入れ物の中に配置されているのではなく、個々の主体が認識し生み出す無数の環世界が存在し、それらの各主観による無限の環世界が組み合わさることで「世界」が構成されている、と見ることができる。

このことをユクスキュルは、一本のカシワの古木とそれを取り巻く生物たちの環世界を例にして鮮やかに示している。

その一本のカシワの木は、木を売って生活する「年老いた木こり」のある意味“合理的”な環世界においては、生活の糧として利用すべき事物であり、それ以上でもそれ以下でもない。たまたま、そのカシワの木の表面にコブができており、それが人の顔のように見えようとも、全く注意を払わない。しかし、まだ童話の世界に生きる幼い少女の環世界では、その木のコブが悪い魔女の顔に見える。かしわの木は少女にとっては生活の糧ではなく、危険なお化けとして存在する。

一方、そのカシワの木の根元に巣穴を構える狐にとっては、木こりが見出した経済的な価値でもなく、少女にとっての危険という意味でもなく、自分と家族を硬い壁で守ってくれる保護物としてのみ存在する。巣穴以外、カシワの木がどんな格好をしていようと、狐の環世界においては問題にならない。

またこのカシワの木を登るアリにとってみれば、アリは近視眼的な視野しか持たないため、山あり谷ありのひび割れた樹皮のみが認識され、カシワの木の全体像や、ほかの部分というのは全く隠されてしまう。
他方、この木の中に巣食うカミキリムシの幼虫にとっては、カシワの木は食材兼住居となる。この材は硬く、外気や外敵から自分を保護してくれる。しかしそれでも完全には安心できない。強力なクチバシで外皮に穴を開けて狙ってくるキツツキがいるばかりでなく、樹皮を細い産卵管でやすやすと貫通し卵を産み付けてくるヒメバチもいる。

その居住者たちの何百という多種多様な環世界のすべてにおいて、カシワの木は客体として、ときにはこの部分でときにはあの部分で、きわめて変化に富んだ役割を果たしている。同じ部分があるときには大きく、またあるときには小さい。その材はあるときは硬く、あるときはやわらかい。(中略)

カシワの木が客体として示す相矛盾する特性を全部まとめようとするなら、そこからは混沌しか生まれてこないであろう。とはいえ、それらの特性はすべて、環世界というものを担い守っている一つの主体の部分部分にすぎない。これらの環世界の主体たちは、いずれもそれらの特性を認識することはないし、そもそも認識しえないのである。

ユクスキュル「生物から見た世界」岩波文庫p.153

自分中心の世界観からの脱脚

ここまでは、昆虫や動物の話も多かったが、環世界論では、個々の人間も主体の一つであるので異なる生物間だけでなく人間の持つ認識のあり方にも当然、適用可能である。ユクスキュルの挙げる、下記の例は誰でも似たような経験があるのではないだろうか。

ある友人の家にしばらく滞在したときのことである。毎日昼食のときに私の席の前には私のための陶器の水差しが置かれていた。ある日、召使いがこの陶器の壺を壊してしまったため、代わりにガラスのデカンタが置かれていた。食事のとき私は水差しを探したが、ガラスのデカンタは目に入らなかった。友人に、水ならいつものところにあるじゃないかと指摘されてはじめて、皿やナイフの上に散らばっていたさまざまな光が突然大気の中を突進して一つになり、ガラスのデカンタを築き上げたのだった。(中略)探索像は知覚像を破壊するのである。

ユクスキュル「生物から見た世界」岩波文庫p.125

これは我々がいる個々の環世界は、事前の予備知識や今までの経緯、歴史と言ったものから大きく影響を受けているということを意味する。我々が当たり前と思っている世界観は自分中心で組み立てられた、主観的な視点にしか過ぎない。

私個人の経験で言えば、嫁は随分楽しそうにしているディズニーランドが、自分にとってはイマイチ楽しめない、とかトイレを家族で気持ちよく使うためのルールとして、1)使用中の人が鍵をかけること、2)入る前にノックをすること、のどちらがより重要なのか嫁と意見が合わない、といったことがあった。これをスマートに説明するならば、嫁と自分の環世界は異なるからと言うことができるだろう。ユクスキュルは下記のように喝破している。

こういうわけで、いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実に他ならない、という結論になる。
主観的現実の存在を否定するものは、自分自身の環世界の基盤を見抜いていないのである。

ユクスキュル「生物から見た世界」岩波文庫p.143

なお、上記の「体験談」については、別の記事に詳細を書いているので興味のある方はご参照下さい。

トイレのノック 以前こんな事があった。私が朝起きてトイレで用を足していた時の事、長女がノックもせずにいきなりトイレのドアを開けてきた...

「地球が泣いている」という謎フレーズ

現代人においては、常識的な概念である「環境問題」についても、環世界論を踏まえれば、その「環境」とは誰にとっての「環境」なのか、という観点が出てくる。

我が家の娘たちは、ゴミが街中に散乱している様子を見たりなどすると、どこで覚えたのか「地球が泣いているね」と言ったりするのだ。この「地球が泣いている」というフレーズだが、前から意味不明な謎フレーズだと思っている。

屁理屈ではなく、地球は泣いたりしないのである。 泣いているのは地球ではない。タンカーの原油漏れで油だらけになった海鳥も泣かない。泣いているのは自分たちにとって都合のいい地球でないことを嘆いている人間では無いのか。

環境とは誰にとってのものか、これを明らかにした上でなければ環境問題は語れない。人間中心で環境を考えることは悪いことではない。なぜなら我々は人間なのだから。その辺をしっかりとわきまえた上で、議論をしよう、そう言うことではないか。本書の訳者、日高敏隆氏は訳者あとがきの中で、明快に解説している。

人々が「良い環境」を築こうと願っている現在、このことはきわめて重要である。「環境」はある主体のまわりに単に存在しているもの(Umgebung)であるが、「環世界」はそれとは異なって、その主体が意味を与えて構築した世界(Umwelt)なのだからである。
「環世界」というユクスキュルのこの認識は、「環境」ということばが乱れ飛んでいる現在、ますます今日的な、そしてきわめて重要な意味をももつに至っている。
人々が「良い環境」というとき、それはじつは「良い環世界」のことを意味している。環世界である以上、それは主体なしには存在し得ない。それがいかなる主体にとっての環世界なのか、それがつねに問題なのである。

ユクスキュル「生物から見た世界」岩波文庫 訳者(日高敏隆)あとがきより

荘子の教えたこと

「胡蝶の夢」の逸話で有名な古代中国の賢人、荘子はその言行集である「荘子」の中で次のような言葉を残している。当ブログでは何度も引用している箇所だが再度登場いただき、まとめとしたい。

斉物論編 第二 (前略)毛ショウや麗姫(りき)は、人はだれもが美人と考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。この四類の中でどれが本当の美を知っていることになるのか。(荘子 岩波文庫 金谷治 訳)

毛ショウや麗姫は当時の中国において、美人の典型とされた人物である。そのような美人の「美」も、人間以外の動物から見れば全く価値の無いことである。コウガイビルの話に戻れば、 コウガイビルと人間どちらが本当にこの世界を知っているかは比べようもないことなのであり、どちらもそれぞれの環世界の中を生きるのみなのである。

さらにこの環世界論を拡張すれば生物以外にとっての環世界、生命ではない機械にとっての環世界も見えてくる。これには私自身の体験談もある。簡単にご紹介しよう。

ロボット掃除機のルンバを夜に使用した時のこと。リビングの掃除をルンバにしてもらい、自分は寝室で先に休もうとした。何気なく部屋の照明を消した時、全く気にすることなく部屋を掃除し続けるルンバを見てはたと気づいた。おそらくルンバは真っ暗な部屋な中でも何事もなく、昼間と同じように同じ品質で掃除を行うだろう。それはルンバは部屋の明るさに関係なく作動する、接触センサーやロータリーエンコーダにより、自分の位置や移動量を測ることができるからだ。ルンバには人と違う環世界が間違いなくある、マダニと人の環世界が異なるように機械にも異なる環世界がある、その発見に愕然としたのだ。

この辺りの議論については、SF小説である神林長平の戦闘妖精雪風シリーズに詳しい。しかしながら、本記事の範疇を超えつつあるので、また改めて記事を書くことにする。

併せて読みたい

人間には視覚、聴覚、嗅覚など様々な知覚機能があるが、その中でも特に視覚が重要視されているのが、人の環世界の特徴である。しかし、視覚を生まれながらに持たない、あるいは失った「目の見えない人たち」はどのような世界像を持っているのか。コウガイビルとはコミュニケーションが取れないが、目の見えない人とは言語でコミュニケーションをとることで、その内容をよく理解することができる。「視覚がないから死角がない」その環世界を覗いてみよう。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、目の見えない人がどのように世界を認識し、世界観を作り出しているかについて調査・考察した本だ。 晴眼者であることを当然として生活している自分たちの認識を相対化し、解体してくれる一冊だ。

コウガイビルではなく、タコの環世界、特にその内面、知能にまで迫ろうとした意欲作。これもまた、人間という存在を相対化して見せてくれる良著である。

哲学者である著者がタコの生態の観察を通じて、単なる物質である我々にどのようにして知性や心が生まれたのかを探る一冊。タコやイカ等の頭足類が主たる題材ではあるが、そのテーマは頭足類を一つのモデルとして、生物や人間の心の在り方を問う挑戦的な内容だ。

コウガイビル・ギャラリー

この個体はよく見ると頭の形が、「コウガイ」の形になっておらず、真っ直ぐ裁ちおとされたような形となっている。事故により切断された個体が、分裂、再生中のところなのだろうか。活きはよく、元気に活動していた。

忘れ物を思い出したのか、ヘアピンターンを決めている個体。一体あの場所に到達した時点で、何が起きたのか、何を感じたのか。

問いかけても黙して語らず。

山吹色をしたミスジコウガイビル以外にも、黒色の体色をしたクロイロコウガイビルもたまに見かける。

これも謎の状態。しっちゃかめっちゃかに見えるが、実は2匹の個体がひっついている。なんでこんなに近接しているのか?交尾の最中なのか?そもそもコウガイビルの繁殖については調べてもよくわからない。

コウガイビルの繁殖については調べたけどよくわからない。プラナリアの一種のため、一つの個体が分裂することで繁殖できることは確からしい。上の解説図では、生殖孔なる箇所が示されているので分裂以外にも繁殖の方法を持つと予想されるが、どういう生殖方法なのだろうか。

資料をあさってみると、たいてい「コウガイビルは雌雄同体」と書いてあるため、有性生殖ではないのだろう。プラナリアの卵、というのは聞いたことがないのだが、どうやって増えていくのか。私は不勉強で知らない。


2019年10月追記

下記のブログに、コウガイビルの繁殖についての記述を発見。分裂以外に2匹の個体が交尾し、「産卵」して繁殖するそうである。ついに謎が解けた。YouTubeにアップされた産卵シーンの動画も紹介されている。これは貴重な映像だ!

みじんこブログ

コウガイビルの産卵シーン Laying egg of Land planarian

比較的大物の個体。60cmぐらいはあるか。コウガイビルは非常に細長いので大きい個体を見つけても、写真写りがとても悪い。ひょろひょろなので。

これも結構大きい個体。上の写真の固体を発見後、100mも行かないうちに遭遇した2体目。とにかくたくさんいるので、踏んづけないように気をつけなければならない。が、しかし踏んづけられた個体もよく見かける。