長野県 学びの県づくりフォーラム に見る「学び」の意味 その1

しあわせ信州創造プラン2.0

少子化、高齢化社会の進行、AI、ロボット技術の急速な発展。現代社会・経済環境は目まぐるしく、かつてない速度で変化していく。この世界において長野県の未来を切り開くための行動計画として、長野県では2013年より5カ年実施した「しあわせ信州創造プラン」を引き継ぎ、2018年より「しあわせ信州創造プラン2.0」として目下実施中である。

「しあわせ信州創造プラン2.0」
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/kensei/soshiki/shingikai/ichiran/sogokeikaku/2018keikaku.html

本県に根付く学びの風土と自主自立の県民性(学びと自治の力)を再認識し、最大限発揮することで、誰もがしあわせに暮らすことができる長野県をめざします。

この、「しあわせ信州創造プラン」は、下記の3つの基本方針を柱としている。HPから抜粋して見てみよう。

•確かなくらし
明日への希望をもって日々の生活を送ることができ、万一の場合には温かな支援を受けることができるという安心があること

•美しい
長野県や長野県民の次のようなあり様を表しています。

先人によって守り育てられてきた豊かな自然や農山村の原風景・町並みの美しさ 

地域に息づく郷土への誇りや絆を大切にする心 

子どもから大人まで未来に向かってひた向きに努力している姿

•学びと自治の力
与えられるだけの受動的な教育ではなく、自らを高めるために主体的に学び、これを社会や組織の中で共有し、各人が協働して地域の課題を解決していこうとする力

これら3つの基本方針のうち、最も重視されているのが、最後に挙げられている「学びと自治の力」であり、これを推進エンジンとして政策を展開する、とHPでは述べられている。「子供から大人まで、一人一人が主体的に学んでいくことが、今の時代を心豊かに生きていく上で大切である」と。

学びの県づくりフォーラム

さて、この「学びと自治の力」について県民の理解を深めるために、各界の有識者、実践者を招いて開催されているフォーラムが、「学びの県づくりフォーラム」である。(聴講無料!)

そのうち、第1回は、2019年1月27日に開催された。

ゲストは元陸上競技選手の為末大さんと、大学教授の中室牧子さん。いずれも優れた実績を上げられた方であり、第1回目のゲストとして申し分ない人選であろう。この、フォーラムの様子については、下記リンク先に概要が公開されているので、参照してほしい。

学びの県づくりフォーラムVol.1
これからの時代に必要な「学び」とは?~為末大さん、中室牧子さんと考える~
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol1report.html

あいにく私自身は本フォーラムを聴講してはいない(そもそも県民でもない。出身は隣の群馬県だし今は神奈川県民。)のだが、本稿では上記の概要を読んで私が感じたことについて書いていく。

これからの時代に必要な学び とは?

これからの時代の学び

フォーラムは為末氏の講演から始まる。まず筆頭に述べているのが、「人は何のために学ぶのか」。その第一に為末氏は「役にたつから」という理由をあげている。ただし、現代においては時代の変化が激しすぎるため、将来どのようなスキルが有効かは予想がつかず、何歳になっても都度必要なことを新しく学ぶ姿勢が重要だと指摘している。

我々が今、そして将来を生きる世界は氏の指摘するように先々の変化が本当に読めない時代となっている。

元は軍事用語であった、VUCAという言葉がある。

VUCA(ブーカ)とは4つの単語

V olatility(変動性)

U ncertainty(不確実性)

C omplexity(複雑性)

A mbiguity(曖昧性)

の頭文字を繋いだもので、近年においては複雑で先の読めないカオス的状況を示す言葉として一般にも浸透しつつある。

現代はまさしくVUCAな時代となった。かつての日本にあったような、「必勝法」は無くなり、これさえあれば安心という絶対的なスキルは無い。その時々で必要なスキルを獲得していくという姿勢が重要と言う指摘は、正鵠を射たものと言える。

人のために学ぶ、という視点

何のために学ぶのか、その二番目として、幸せになるために人は学ぶ、と述べている。そして、人は人のために役立つ時に幸せを感じる、と続けている。人は社会的な動物である。生まれた時から、社会の一員として意味付けられて存在している。仮にどんなに遠くまで逃げていったとしても、自分が両親の子であり、ご先祖様の系譜に連なる存在であることからは逃れられない。人との関わり合いの中で生きていく事は人間の生物学的な面からも必須の条件となっている。

幸せが、人のために役立つことであり、それがために人が学ぶのであれば、それは「生きがい」に近い概念かもしれない。「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉が聖書にはある。人はパン(収入)以外にも生きる意味(目標=生きがい)が必要でそれは信仰によって与えられる、と説くのが聖書である。しかし生きがいは信仰以外であっても良い。人のために役立つこと、というのは生きがいとして掲げるに足る、人にとって根源的なテーマであろう。

幸せになるため、人に役立つため、学ぶ。その視座に立てば、「学び」とは人として生きる生きがいを得るための手段としても捉えることができるのだ。

成功とは何?マシュマロテストに思う

一方、中室氏の講演では、大学教授らしく様々な研究事例や科学的調査に基づく提言がなされている。その中で、我慢する能力が成功に繋がるという研究事例として、いわゆる「マシュマロテスト」の例が紹介されている。

マシュマロテストについては、冒頭に挙げたリンク先の講演概要にも書いてあるが、
「被験者の子供に対して、どれだけ我慢できるか、と言う能力を評価した後、子供たちの成長を追跡調査した。その結果、テストで高評価を得た子供たちは、上場企業の社長や、一流プロスポーツ選手になるなど“成功した”という実験」
のことである。

しかし、疑問に感じるのは成功をどう定義するかである。上場企業の社長や一流プロスポーツ選手になることが唯一絶対の価値でないことは言うまでもないだろう。だいたい皆が皆、自制心を高めた結果、社長やアスリートばっかりの社会になったとしても困るだろう。豊かな世の中には多様性が必要なのだ。

先の為末氏の話にあったように、正解の定義が出来ない世の中になったこと、また幸せとは人の役にたつこと、と考えれば“成功”の意味合いもまた自ずと変わってくるのではないか。そしてそれは人の生きがいが人それぞれ異なるように、人によって異なった意味合いになるだろう。

成功をどう定義するのかも、またその人の価値観による。むしろその価値観を形成することが大事な学びであろう。

スキル・手段としての学び

さて、VUCAな時代において、これさえあれば、絶対的に安心、というスキルは無いと先に述べたが、それはあくまで小手先の“スキル”の話である。より根本的なところに本質はある。それは何かを学び自分を高めていくという、その姿勢であり技法であると考える。

何がこの先に役立つかわからない、かと言って全てに対処するべく用意することもできない。時間は有限であり、何かを決めて実行するということは、他のすべての選択肢を排する、ということである。

先に為末氏の講演で指摘されていたように、状況が変わっていく中で都度必要と思われる知識や技能を身につけていかなければならない。そのとき、最も根源的なスキル、スキルの中のスキルとして役立つのは、いかにして物事を考え、学んでいくか、ということである。そこを如何にして育んでいくか、は一朝一夕に答えの出る問題ではないだろうが、読書習慣は個人的に重要と考えている。

読書習慣がいかに人生を支えるか、ということについては下記の記事に書いているので、参照いただきたい。

外国語や学習塾、スポーツなどどんな習い事よりも優先して子供に身につけさせたいスキル。それが読書である。文字を早く読み、その内容を正確に理解することは、日常のあらゆる場面で有利に働く何よりも重要なスキルである。

AIとどう対峙するか

AIの進歩により、我々や我々の子供の世代が生きる世界がどう変わっていくか、という話は議論が尽きないところである。ここで、本フォーラムにおいては、学びの要素のうち、学力テストやIQテストでは評価できない、「非認知能力」として自制心ややり抜く力、そして学ぶ意欲、物事に取り組むモチベーションが重要と繰り返し指摘されている。実はここに人がAIと向き合う際の大きなヒントがあるように思う。

現状のところAIはあくまで特化型であり、汎用のAI、強いAIと言うものはまだ存在していない。現在のAIはあくまで「何かをするために」設計されたAIであり、その「何かをする」という目的の部分は人が設定しているに過ぎない。

楽器を演奏するロボットや、作曲をするAIを設計することはすでに可能であり実例も多い。しかし、楽器を演奏「したい」ロボットや、作曲を「したい」AIは未だ存在しないし、今後も少なくとも当分存在しえない。「したい」という欲求、意欲はあくまで人が志向するものであり、それこそ人が人たる所以であろう。

つまり意欲を持っているかどうかが、人とAIとの当面の分水領となると言えるのではないか。そしてその意欲を実現するためにどうすれば良いか、を考えたときスキルとしての学びは自分の描いた夢を実現させるための、無二の武器となるだろう。

また、意欲が持てるかどうかが、AIと人とを分かつラインになるのであれば、意欲を持たない人間は、AIにより代替され淘汰されうるとも言える。昔から自ら考えて行動することのできない人間は「指示待ち人間」などと称され問題視されてきたが、今後「指示待ち人間」には更なる逆境が待ち受けているだろう。

終わりがない何か、としての学び

為末 「終わりがない何か」をやることがとてもいいのではないでしょうか。スポーツでも芸術でも、学び、楽しめるものを見つけてほしいと思います。

フォーラムのまとめは、為末氏、中室氏と長野県知事の阿部氏によるトークセッションである。この中で私が着目したいのは、為末氏が指摘した「終わりがない何かをやることがとてもよい」と言う点である。それは学ぶこと自体が「終わりのない何か」の最たるものであるからだ。

「人間は考える葦である」の名言で著名で、科学分野でも大気圧の測定など数多くの業績を残した多才の人、ブレーズ・パスカル(1623-1662)は次のような言葉を残している。

「知識は球体のようなもの。大きくなればなるほど、未知と接する部分も広がる。」パスカル

図で説明しよう。「未知の世界」の領域の中に知識の領域がある。学ぶことで知識の領域は拡大する。しかしその時、赤線で示した、「未知の世界との接線」もまた拡大する。

学べば学ぶほど、新たな興味を惹かれることに出会い、どこまで学んでも未知との遭遇は続いていく。人はそのような自分の知らない何かに出会い続ける限り、その“未知”から学び続けることができるのである。

県民を終わりなき学びの探求への道に誘う、本フォーラム。教育は国家百年の大計とも言われるが、県民の学びを重視した、しあわせ信州行動計画とともに、大きな成果が花開く将来が今から楽しみである。

併せて読みたい

学びに際しては、自分の無知を認め、受け入れる必要がある。そして時に不安や恐怖すら覚えるような未知と対峙していかなければならない。下記に示す、「無知の技法」は、自分の無知を否定的にではなく、肯定的に捉えて未知への積極的なチャレンジを促す、良書である。VUCAの話や、パスカルの名言などはこの本からいただいている。非常によい本なのにも関わらず、今ひとつ読まれていないようにも感ずる。是非とも手に取っていただきたい一冊なのでここで紹介する。

無知の技法は「無知」を受け入れ、無知であるが故に開くことができる可能性に着目する。誰も正解を知らない、正解が存在するかも分からない世界において生きるために、「知らない」と言うことと向き合う姿勢が必要不可欠と教えてくれる。

中室牧子氏の講演では、「意欲を高めるために何が必要か」と言うテーマの元、単純に報酬を与えるだけで人の意欲は高められない、という研究成果を紹介している。行動経済学を一般向けに紹介した、「予想通りに不合理」では、報酬を与えたり、罰金を与えて“市場のルール”を導入することで、人の倫理的規範が損なわれてしまう、という研究事例が紹介されている。個人的にも経験があるところだが、まさしく中室氏の紹介した事例とリンクする話である。

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) ...

他、当ブログでは記事を書いていないが、AIと教育の問題としては新井紀子著「AI VS 教科書の読めない子どもたち」は外せない。とても評判になった本なので、読んだことのある方も多いと思うがAmazonのリンクだけ載せておく。