
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
芥川龍之介 「蜘蛛の糸」(青空文庫版)
「自分が良ければいい」という価値観は、しばしば利己的で、器の小さい生き方のように見える。
自分の手元にあるアセット——スキルや知識、経験や資本——を、自分のために最大限に活かそうとする姿が、私にはこの犍陀多(カンダタ)の糸登りに重なって見えた。
下にいる者を振り返らず、ただ自分だけは助かりたいと糸を掴む様は、見る者によっては冷たく、狭量に映るだろう。
しかし、市場経済の中でその糸を登ろうとする限り、その行為は必ず他者の目に晒される。
顧客、競合、仲間、評論家——無数の目線が、その行動や成果を評価する。
その評価は売上や評判という形で返ってきて、独りよがりな方向へ暴走することを防ぐ。
市場という糸は、自分一人だけのものではなく、無数の手が同時に掴んでいる。
だからこそ、登るにはバランス感覚が求められる。
もっとも、市場は万能の審判ではない。
時にそれは間違い、非合理で、倫理的でもない選択を促す。
トレンドに流され、短期的な欲望に振り回される市場の声を、そのまま自分の指針にすることは危うい。
そこで必要になるのが、自分自身の哲学(philosophy)と良心(consciousness)だ。
それは市場の評価を受け止めつつも、最後に自分で「何を選び、何を捨てるか」を決めるための羅針盤になる。
この姿勢は、岩明均『寄生獣』の泉新一の生き方とも通じる。
彼は人間と寄生生物の狭間で、生きる意味を問い続けた末、「自分、そして身近な人を守る」というごく小さな、しかし自分にとって揺るぎない目的を選び取った。
それは世界を救う英雄的行為ではなく、自分の半径数メートルの範囲に責任を持つ生き方だった。
けれど、その選択こそが彼を彼たらしめた。
だから、独りよがりだと笑われることを恐れる必要はない。
自分のために登ることは悪ではない。
ただ、その糸が自分だけのものではないことを知り、他者と絡み合う中で自分の歩幅を決めればいい。
結局のところ、誰もが自分のために生きている。
大事なのは、その「自分のため」が、無意識のうちに誰かをも支える形になっていることだ。
ミギーとおれとで協力してきた戦い……
それはどう見たって地球のための戦いなんかじゃない
人間だけのためというか
……おれという
個人のための戦いだ(中略)
他の生き物を守るのは
人間自身がさびしいからだ環境を守るのは
人間自身が滅びたくないから人間の心には人間個人の満足が
あるだけなんだでもそれでいいし
それがすべてだと思う人間の物差しを使って
人間自身を蔑んでみたって
意味がない岩明均 「寄生獣」


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