プロダクトマネージャーの対価とは?プラトンは「罰を回避するため」と言った。

プロダクトマネージャーの「対価」って何?

私の職務はプロダクトマネージャー(PdM)だ。PdMについてイメージがつかない方は下記の記事を読んでいただけば大体察しがつくと思う。

私の考える組織のあり方とプロダクトマネージャー制度について。 組織像 組織は長期的な理想像(いわゆるビジョン、ミッション、企業...

PdMは製品の未来を描き実現の方針を定め、その実施を阻む諸問題について解決していく、という責任の重い職務である。

さて、こんなPdMであるが、そのあり方について職場にて議論していた際、現PdMあるいはPdM候補から「PdMになることでどのような対価が得られるのか?」「PdMになるメリットは?」という意見が上がった。これは私にとっては驚きの発言であった。PdMの「対価」「メリット」など私は全く考えたことがなく想定外の発言だったからだ。

私自身はPdMについて対価もメリットも考えたこともない人間だ。私自身はPdMとして働くにあたって誰かから要請されたり命令されたりしてなったわけではなく、自分が、あるいは組織から見て、こういう役割を果たす人が必要だから、という理由を自分で見つけて勝手に始めたことであり、そのとき何か自分にとってメリットがあると考えたことはない。

改めて、PdMの対価とは何か、メリットとは何か、と問われたとき私が真っ先に思い出したのプラトンの言葉だった。

プラトンかく語れり

その言葉は哲学者プラトンの「国家」の一節に登場する。プラトンの師であったソクラテスが理想の指導者について議論するシーンである。少し長いが以下に引用しよう。

 「だから」とぼくは言った、「すぐれた人たちが支配者の地位につくことを承知するのは、金のためで名誉のためでもないのだ。なぜなら、支配の仕事のための報酬をあからさまに要求することによって、金で雇われた者と呼ばれることも、役職を利用してひそかにみずからの手を汚すことによって盗人となることも、ともに彼らの欲するところではないからね。さりとてまた、名誉のためでもない。彼らは、名誉を愛し求めるような人間ではないのだから。
 こうして、もし支配者となることを彼らに承知させようとするならば、強制と罰とが彼らに課せられなければならない。強制されるのを待たずに、すすんで支配者の地位につこうとするのはみっともないことだと一般に考えられているのも、おそらくは、こういうところから由来しているのだろうね。
 ところで、罰の最大なるものは何かといえば、もし自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者となるときには、こういう罰がこわいからこそ、自分が支配者になるのだとぼくは思う。彼らはそのとき、支配することを何か善いことであると考えたり、その地位にあって善い目にあることを期待したりして、支配に赴くわけではないのだ。支配をゆだねてもよいような、自分以上にすぐれた人たちも、あるいは自分と同等の人たちさえも見出せないために、万やむをえぬことと考えてそうするのだ。

プラトン「国家(上)」 藤沢 令夫 訳 岩波書店刊

プラトンは「指導者がなぜその地位に就くのか」という問いに対して、「金」や「名誉」といった対価ではなく、「罰」を回避するためなのだ、と述べている。しかもこの罰は、他者から課せられる罰ではなく、もし自らが指導者にならずにいれば自らが自らに下すことになる罰であり、自身の内側に由来する動機である。これは自分がPdMとして、あるいはPdM的役割で働くことを選んだ理由としてかなり近いものがある。うまくいっていない組織、チーム、製品があって、このまま放っておけば立ちいかなくなることが自らの目から見て確信できる状況の時、それを何とかしようとするのが、最大の動機づけなのではないか。

内発的な動機付け

はたして報酬や対価を外部から与えられたとして人が動く動機になるだろうか。また、部下から「他人を意のままに動かす圧倒的な権力が欲しい」と言われたことがある。はたして強制力をもって人を動かすことができるものだろうか。それができるのはごく単純な業務においてのみではないだろうか。例えばPdMのような責任ある立場であり、創造性と実行力を求められる立場の職務について強制によって成果を期待できるものだろうか。

私は強制や外部からの対価でPdMのような職務を行わせるのは無理だと思う。このような職務において、成果をあげるため、あるいは潰れずに職務を全うするには絶対に内発的な動機が、強い自らの意思が必要だ。PdMのあり方についても論じている「ソフトウェア・ファースト」の著者、及川卓也氏はPdMの仕事のやり方について、内発的な動機、自分自身のプロダクトに対する信念、思想が必要だという指摘をしており、「楽しくなければ何かがおかしい」という話をされているが、これとも通じるところがあると思う。

「PMを学ぶ夏」参加しました! 2020年の8月9日、ProductZineにより開催されたオンラインイベント「プロダクトマ...

物事を「楽しめる」状態というのはやらされている状態とは違う。それは自ら望んで取り組んでいる状況のはずである。嫌な仕事だが対価が、報酬があるからやる、という状態では決してない。

どのような場合に人が動機付けられ、その能力を発揮させるか、という点についてはモチベーション理論の分野で研究されてきた。例えば、ハーズバーグは組織で働くメンバーに対して仕事への責任や給与といったさまざまな要因が、働き方にどのような影響をもたらすか研究した。そしてその結果、組織メンバーのモチベーションに影響する要素は、「満足をもたらす要因」と、「職務に対して不満をもたらす要因」の2つに分類できることを発見した。(ハーズバーグの2要因論)

この理論によれば、職務を行うことに満足をもたらし、組織メンバーの積極的な態度を引き出す要因(動機づけ要因と呼ぶ)は、

達成感、承認、仕事への責任、昇進

とされており、一方職務への不満をもたらす要因(衛生要因と呼ぶ)とは、

会社の方針、上司の監督、給与、人間関係、労働条件、作業環境

などであるとされている。 

衛生要因が悪化した場合、職務への不満を生じさせるが、衛生要因を改善したとしても不満を防止する効果が得られるだけで、組織メンバーの仕事に対する積極的な態度を引き出す原動力にはならない。組織メンバーがやる気を出すためには、達成感、承認、責任ある仕事、といった動機付け要因が改善されなければならない、というのがハーズバーグの主張なのである。

また、同じくモチベーション分野の研究においては「アンダーマイニング効果」も知られている。これは本人が自発的な意思に基づいて行動している際に、その行動を動機付けようとして金銭等の報酬を与えたりするとかえって本人のモチベーションを低下させてしまう、というものである。

重い責任と成功したときの達成感が大きいPdMのような職務はハーズバーグの二要因論からすれば、動機付け要因の強い職務と考えられる。この時、対価としての金銭を与えることは不満を減らす効果をもつと予測される。しかし金銭等の対価は動機付け要因ではないため、積極的に職務に向かうモチベーションを高めることに繋がらない。

しかし、そもそもあるメンバーが、その業務の責任ややりがいについて魅力を感じない状態であるとき、対価を充実させてもその責務を果たすように動機付けることは難しいだろう。

だからそもそも、あるメンバーがPdMを引き受けるに際して対価・見返りを求めるのであれば、そのメンバーは職務に向いてないのかもしれない。やらせてくれってのぞむくらいじゃないとだめなんだと思う。これは行き過ぎた考えかもしれないが、果たしてこれはストイックすぎる思想だろうか?

また、すでに自らの意思でPdMの道を選んだ者に対して、事後的に金銭等の対価で以て報おうとする際にはアンダーマイニング効果に十分配慮し、事前に本人とのコミュニケーションやメンタルへのケアを行うことが必要そうだ。

こういった意欲あるメンバーに対してもし給料が意味を持つとするならば、それは「給与」という「物」を通じて、「組織はあなたの価値を認めていますよ、尊重していますよ」というメッセージを送るということではないか。これらの対価は「動機づけるため」ではなく、組織として、重責を引き受けてくれたことへの感謝、リスペクトの表明であることを本人には伝えるべきだろう。

この線で行くとPdMは「やりがい搾取」なんじゃないか、とか責任感のある人が押し付けられてかわいそう、的な議論になる。

一つは程度の問題がある。過労死するようなレベルで働かされるのは当然問題で、間違いなく是正されるべきだ。

またもう一つは当人の価値観の問題がある。他人からどう見えるか、と当人がどう感じているかは別物だ。カルト教団の信者ではたから見れば常軌を逸した人がいても、当人が幸福で(周りの人や社会に迷惑をかけなければ)それはそれで良しだ、と思う。幸福や不幸は時代によって違う。封建社会の時代に生きた人は自由が無くて苦しんだかもしれない。だけれども自由を手に入れた今、多様な選択肢を選ぶ自由の裏側にある責任に人は苦しんでいないか。

時間外勤務に関しても、他人から課せられ強制されている労働と、自らが己の理想を実現するために主体的にかかわる時間とでは意味が違うだろう。

でも、人によって境遇が違う。あくまである一人の主観の範囲の話に過ぎない。しかし同じような考えを持つ人が周りにいないわけではない。だから限定された範囲かもしれないが、ある程度の一般性がある話のように思う。

選民思想的危うさに陥らないように

最後に、付け足しで。プラトンの話はヒロイックでかっこいい。しかし、一歩間違えばここに書かれた思想はトラブルの種になると思う。特に他人に対して自分を正当付けるために直接この議論を使ったりすればそれはトラブルになる。「貴様ら愚民どもを高潔な理想の元、この私が支配しようと言うのだ。」という態度で望んでは指導者の地位についたとしても周囲からの理解や協力は得られず、大した仕事はできないだろう。

自分自身の能力に自負を持ちながらも、一方では謙虚に自分は指導者の任に耐える存在か、周りからの意見にも耳を傾けながら、進まなければならない。常に冷静に、傲慢や驕りに囚われてはならない。
この世の誰にしても、物事に絶対的な正解を与えられるものではない。物事の意味も価値も相対的なもので常に変化していくもの。常に他者との対話を通じて、自らと他者との差異から学ぶ姿勢が大切と思う。

そのあたりはミルの自由論を読むと、他者を尊重する気持ちが芽生えてよい塩梅。いつかはミルの話もしたいです。