鬼滅の刃の映画を3回見て思ったこと「俺は俺の責務を全うする」

本記事には鬼滅の刃に関するネタバレが含まれていますのでご注意ください。

俺の責務を全うする

鬼滅の刃の本編主人公は竈門炭治郎だが、こと無限列車編に限れば主人公は炎柱、煉獄杏寿郎と言って良いだろう。とにかく全編を通じて、彼の生き様、戦いざまがとても印象的に格好良く描かれている。その中でも屈指の名シーンは、上弦の参、猗窩座との対決シーンにおいて満身創痍となりながらも一歩も退かずに、むしろ自らの闘気をより一段激しく燃やして言い放つ、

「俺は俺の責務を全うする!」

という場面では無いだろうか。自らの命を犠牲にしてでも200人余りの民間人、そして炭治郎はじめとする鬼殺隊の後輩を守り抜く決意。その柱としての責任感と気高き精神に誰しもが感涙を禁じ得ないシーンのはずである。

そう、そのはず、であるのだが、実は私はコミックスで読んだ時からこのセリフに違和感を覚えており、映画を見た時も素直に歓迎できず、どこか冷ややかに見ていた。

それは端的に言えば、“誰かに与えられた”責務のために死ぬことへの嫌悪である。例えば社会や国家、所属する組織から何かを強制されて、それに殉ずるような生き方は幸せなのだろうか。煉獄の言葉「責務を全うする」を私は当初そのようものと捉えていた。

煉獄さんとは

はたして炎柱、煉獄杏寿郎とはいかなる人物であろうか。今回の劇場版上映にあたっては来場者特典として限定アイテムが何度も配布されたが、その一つであるパンフレットに理解するための手がかりがある。

パンフレットでは声優陣たちが作品について語り合った内容が収録されている。その中で、各キャラクターが魘夢により眠らされている時見る夢の内容についての話題で下野紘(我妻善逸役)は次のように述べている。

下野
「煉獄さんの無意識領域がまたすごかったんですよね。確かに熱い人ではあるけど、無意識領域が焼け野原みたいになっているのを見ると、きっと熱い想いとともに、辛く苦しいことも経験してきたのかなって思います。その中でお母さんの言葉を胸に、熱い気持ちを持ちながら生きてきたのかもしれない。」

映画公開時の特典パンフレットから

コミックスでは描写が少ないのだが、映画においては煉獄の無意識領域がしっかりと描写されている。下野が言うように、煉獄の無意識領域は希望や目標に向かって燃える熱血漢のそれではなく、焼き払われて跡形もないのになお炎の止むことのない灼熱の地獄のように見える。

表面上はどこか調子っぱずれだけど面倒見がよく頼れる兄貴分、明朗快活な熱血漢なのだが、その内面は凄まじく殺伐としていることがよくわかる。

さて煉獄が言うところの責務、それは母、瑠火の

「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」

と言う言葉に依っている。しかし、その責務に応えることは並大抵のことではなかったのだろう。下野が指摘する通り、彼の無意識領域の凄まじさはそのことを物語っている。

夢の中で、弟の千寿郎に対して「お前は俺とは違う、お前には兄がいる。兄は弟を信じている」と語りかけるシーンでも、「お前は私と違って、私のような責務に縛られる必要はない、自由に信じる道をゆけ」と言っているように私には思える。このような責務は誰しもに負わせるものではない。これは荊の道なのだから。強く生まれた自分が背負い込むべきものなのだと。

責務を昇華する

だから、責務を全うする、と言い放ち死地に飛び込んでいく煉獄を見て私は違和感を覚えたのだと思う。

母親の期待に応えるために剣を振るい死んでいく煉獄はかわいそうだ。そのような生き方は自分には理解できない、とやや冷ややかな目線で見ていたのだろう。

しかし、それは浅はかな理解であったと今は思う。

なぜならば煉獄にとって責務とは他人や組織から与えられるものではなく、自分自身が己に課し、自分自身の理想とするものにまで昇華されていたからだ。その時、責務とは「自分自身が自分に望む絶対に果たしたいこと」であり「何があっても成し遂げたいこと、やりたいこと」と等しくなる。つまり煉獄にとって己の責務を全うする、とは即ち「自分が心からやりたいことをやり遂げる」と言うことに他ならないのだ。

その責務が他人から見てどう見えるか、と言うことは当人にとってはもはやどうでも良いことである。あるのは当人にとっての主観的な問題だけだ。煉獄は死ぬ間際、母親の瑠火の姿を見る。そして「立派にできましたよ」という声を聞き納得して死んでいく。

あれがいまわの際の幻だろうと、母親の霊魂と対話したのだろうとそれはもうどっちでも良い。煉獄の主観から見れば母親に声をかけてもらえたという、圧倒的現実だけがあるのだ。それがあればこそ、何も思い残すことなく幸せに死んでいくことができたのだ。

映画の最後で、炭治郎は「煉獄さんは負けてない!煉獄さんの勝ちだ!」と叫ぶシーンがあるが、その言葉をもじれば「煉獄さんは悲しい生き方じゃない、幸せな生き方なんだ!」と言わせていただきたい。煉獄の人生の悲壮さにではなく、豊かさにこそ私は感動する。自分の信じる道を進み、その理想に殉じて人生を終える美しさ、そして満足してこの世を去るその穏やかな笑みが私の心を打つのだ。

PdMとしての”責務”

映画の登場人物について思いをはせる時は、常に自分自身の現状が投影されているものだ。今回を煉獄の言葉のうちの「責務」に私がここまで敏感に反応しているのは即ち、私自身の生き方、特に職場における「責務」のあり方について自らが違和感を持っているからに違いない。

それはいま担当しているプロダクトマネジャーと言う役割の特殊性による。プロダクトマネジャーの業務内容は多岐にわたり、他者から見てその責任範囲がわかりづらい。実際、曖昧な部分がたくさんあるのだ。

そのため、駆け込み寺のようにさまざまな案件が持ち込まれてくるが、それらの全てに応えることはできないので取捨選択をしなければならない。こういう時に理屈で考えると動けないことが多々ある。理屈で考えて決まらないからPdMのところに回ってきているので当然である。ロジックで処理できることなら極論誰でも判断できるのだから。

そういう問題を処理するにはどうすれば良いのか。それには煉獄さんの生き様が参考になる。責務を他者から与えられたものではなく、自分自身の問題にまで昇華させ自らの信念によって判断していくのである。その信念とは多分に主観的、恣意的なものであり、言ってしまえば好き嫌い、好悪の問題に近い。しかし理屈で決まらない問題に対してはそうやって答えを与えなければならない。己の主観を単なる驕りや自惚れで無いよう、磨き高めていく。煉獄の言う「心を燃やせ」とは今の自分にはそう聞こえるのだ。