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学びの県づくりフォーラムとは
少子化、高齢化社会の進行、AI、ロボット技術の急速な発展。現代社会・経済環境は目まぐるしく、かつてない速度で変化していく。この世界において長野県の未来を切り開くための行動計画として、長野県では2013年より5カ年実施した「しあわせ信州創造プラン」を引き継ぎ、2018年より「しあわせ信州創造プラン2.0」として目下実施中である。
「しあわせ信州創造プラン2.0」
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/kensei/soshiki/shingikai/ichiran/sogokeikaku/2018keikaku.html
本プランの中で最も重視されているのが、「学びと自治の力」であり、これを推進エンジンとして政策を展開する、とHPでは述べられている。
この「学びと自治の力」について県民の理解を深めるために、各界の有識者、実践者を招いたフォーラムを開催している。その名も、「学びの県づくりフォーラム」。
当ブログでは、このフォーラムの議事録を読んだ感想をまとめて記事を公開してきた。
今回は、このフォーラム企画の第四回をレビューする。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol4report.html
第四回は二部構成。まず基調講演として、型破りな学校運営が話題の東京都千代田区立麹町中学校、校長の工藤勇一氏が講演している。タイトルは「学校教育を本質から問い直す–そもそも目的って何?–」麹町中学校の教育方針とその成果を挙げて、現代の学校教育に必要なものは何か、を問うている。
感想はこの後に述べるのだが、非常に共感でき、濃い内容の講演だった。この先の未来を生き抜いていける子供(人材)をどう育むか、ということは「三児の子供の親という私」の立場として大事な問題であることはもちろん、民間企業において、人材をどう開発し組織を発展させるか、という「企業人としての私」にとっても重要な課題である。工藤氏の講演は、このような私の持つ問題意識に思いっきりぶっ刺さったのである。
この講演の内容はYouTubeに公開されている。およそ45分だが、話がうまく長さを感じさせないのは、さすが学校の先生、と言ったところか。
後半の第二部はトークセッション。基調講演をされた、工藤勇一氏に加えて以下の豪華メンバーにより行われた。
元文部科学副大臣、前文部科学大臣補佐官の鈴木寛さん、元ヤフー社長の宮坂学さんら錚々たるメンバーが加わり、阿部知事とともに学校や教育のあり方などについて熱く語り合いました。
こちらの内容も全てYouTubeに公開されている。いずれの内容も大変貴重で価値あるものである。なお、これら全てをYouTubeで世界中に公開する長野県の度量の大きさは大変素晴らしいと思う。企画自体は長野県民の税金で運営されているはずだが、その成果をあまねく世界中に還元しているのだから。たいへんありがたいことである。
手段と目的の混同
工藤氏の講演において、そのベースとなる問題意識は、現代の学校教育において、本来の目的が見失われ、手段でしかない数値評価が教育者の目的としてすり替わってしまっていることである。その結果、数字の見栄えを良くするために特化した教育ばかりがおこなわれ、変化の激しい時代を生き抜くために不可欠な、自分で考えて行動する力が失われた子供たちが生まれていると説く。
自分で考えず、言われたことをやり続け、勉強時間が長いことはいいことだのような考えのもとで教育を受けてきた大人が、働く時間を短くして成果を上げろという働き方改革なんてできると思いますか。今の日本社会の問題は学校教育に原因があるように私は思います。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol4report.html より引用
学習指導要領にて定められた授業時間を満たすためだけに必死になっている多くの日本の教育現場の姿を工藤氏は嘆いている。ここで指摘されている「働き方改革」の問題点にうなづかれる方も多いのではないか。
私自身小学生の娘がいるため、現代の教育現場について思うところは多い。下記の記事には、小学一年生のときの授業参観に覚えた強い違和感について書いている。
詳細はリンク先を読んでいただきたいが、「自分だけのマークを作ろう」という図工の授業において、あまりにも教員がテーマや作品に余計な介入をしすぎだ、ということを述べた記事である。「自分だけのマーク」という児童一人ひとりの個性や価値観が何より尊重されるべき題材において、なにか一律の基準により型に嵌めようとするかのごとき姿勢に違和感を覚えたのである。この感覚は先の工藤氏の指摘と根源は同じであると思う。
社会において、一定の枠組みが存在することは間違いなく、そこからあまりにも逸脱してしまえば、社会生活を送ることは難しいかもしれない。しかし、世界を物質的、精神的に豊かにするような画期的な成果を上げる人、俗に天才と言われるような人は、既存の枠組みを破壊することによってそれを成し遂げてきたのではないか。
年端もいかない子供にとって、学校の教員というのは、圧倒的な力を持つ、世界の真理を司るがごとき存在なのである。(私は小学校のころ、そう思ってました。。。)それであるが故に、小学校や中学校において、どのような教育が行われるかは、その先の高等教育よりも人格には決定的影響を与えるものと思う。(だから本当は幼児の頃の経験や、家庭での生活が最も重要なんだけど。)
だからそのときに、どうか「要領」に従っただけの型に嵌めた人間にしないでおくれ、と思っている。
子供には、「先生もただの人間にすぎず、不完全なのだから、意味がわからないことや、道理が通らないと思った時は、遠慮無く問いただせ。」と話しているのだが、教員とはなかなか立場の差もあり対等に議論するには気後れするようである。結果、優等生キャラとなり先生からの覚えは良いようだが、果たしてそれでやっていけるのか?「物事について、常に自分で何が正しいのか、問い続けろ」と家では教え諭してはいるのだが。
自律した人間であれ
ジャン・ジャック・ルソーの「エミール」は教育論として著名な古典である。その中には次のような一説がある。
社会の渦のなかに巻きこまれていても、情念によっても人々の意見によってもひきずりまわされることがなければ、それでいい。自分の目でものを見、自分の心でものを感じればいい。自分の理性の権威のほかにはどんな権威にも支配されなければいいのだ。
ジャン・ジャック・ルソー 「エミール」今野一雄 訳
これは私が大好きな一節である。私自身まだ至らぬ点ばかりだが、かくありたいと日々もがいている。このような生き方をするためには自律した人間である必要がある。工藤氏も正解の無くなった現代を生きるために、何よりも自律した人間であれと講演で述べている。
今は世の中がものすごい変化する時代です。自分で起業や転職をする、そういう意思と想像力が必要です。そして何らかの問題を一国だけで解決できない時代、グローバル化した時代になりました。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol4report.html より引用
学校の目的として最優先すべきは、自分で考え、自分で行動する力。「自律」です。そして違いを認め多様な考え方、他者を「尊重」する力です。これらを育てなければなりません。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol4report.html より引用
変化が激しく、また急速になった現代において、まさしくその通りであると思う。自分で考えて、正しいと思うことを実行できるか、はこの先の世界を生き抜くために欠かせない能力だろう。たとえ、自分の選択により思い描いたような結果が得られなかったとしても、自分の人生に納得して生きていくためには、自律した人間であることが不可欠なはずだ。
違いを認め尊重し、学び合う
先に引用した部分にもあるが、工藤氏の講演で「自律」に続いて強調されているのが、「他者の尊重」である。
当校の教育目標にも「自律」と「尊重」を掲げています。そして、この二つがあってこそ「創造」ができるという目標です。私は、人が社会の中でよりよく生きていけるようにしてあげるために学校があると思っています。そして世の中にはいろいろな人がいて、そういう人たちと持続可能な世の中を作っていくための学びが必要だと考えています。そうした上位の本質的な目標が忘れ去られ、学校現場では学習指導要領をこなすことが目的になってしまっているのではないでしょうか。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol4report.html より引用
自らと違う他者を尊重し、その違いから学びとること、高度に自律した人間達は各々の価値観に従って、千差万別の個性を持つことだろう。その際にはそれぞれの個性を大切にし、互いに認め合うことが欠かせない。また自分と異なる他者からは、必ず学ぶことができる。
このような工藤氏の講演を拝聴し、思い出したのは、各人の自由の尊重と、自分と異なる他者と対話し、学び合うことの重要さを問いた古典、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」だ。
世論の専制は、変わった人を非難するものだ。だから、まさしく、この専制を打ち破るために、われわれはなるべく変わった人になるのが望ましい。
ジョン・スチュワート・ミル「自由論」斎藤悦則 訳
例えば、自分と異なる意見を持つものがいたとする。そのときその人と対話を行うことができる。もし、自分の意見が正しいのならば、妥当な理由でもって相手の意見を反駁することができるだろう。この場合、自分と異なる意見に反論する過程を経て、自らの説をよりブラッシュアップすることができるはずだ。
一方、もし自分の意見より相手の意見が正しいと思われる場合、自分ではたどり着くことができなかった高みに、自分とは異なる意見により導いてもらうことができたわけである。
いずれにせよ、自分と異なる意見から我々は学びを得ることができるわけだ。だから自分と異なる他者を我々は尊重しなければならない。
ミルは、「自由論」の最後をこのように締めくくっている。
国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値にほかならない。だから、一人一人の人間が知的に成長することの利益を後回しにして、些細な業務における事務のスキルを、ほんの少し向上させること、あるいは、それなりに仕事をしているように見えることを優先する、そんな国家には未来がない。たとえ国民の幸福が目的だといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を萎縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがないということを。すべてを犠牲にして国家のメカニズムを完成させても、それは結局なんの役にも立つまい。そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものも失わさせてしまうのである。
ジョン・スチュアート・ミル「自由論」斎藤悦則 訳
このミルの言葉と、工藤氏の語った言葉は、どこかオーバーラップして私には見える。工藤氏の掲げる理想に基づく教育が、どのように実を結ぶのか、期待して見届けるとともに、我が子への家庭での接し方、そして職場の後輩の育成に向けて自分も努めていきたいと、本講演を聞いて思いを新たにした。ごっつぁんです。
余談
上で述べたように、世間では最終学歴ばかりが注目され、どの大学を卒業したかが重視されがちなのであるが、私としては初等教育、特に幼児期にどのような経験を送るかが実はクリティカルなのではないかと思っている。自分の意思を持つ子供を育てるために、その子の個性を大切にする保育園があるので、下記の記事で紹介している。
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