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長野県 学びの県づくりフォーラム に見る学びの意味 その2
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しあわせ信州創造プランと「学びの県づくりフォーラム」
前記事はこちら。
少子化、高齢化社会の進行、AI、ロボット技術の急速な発展。現代社会・経済環境は目まぐるしく、かつてない速度で変化していく。この世界において長野県の未来を切り開くための行動計画として、長野県では2013年より5カ年実施した「しあわせ信州創造プラン」を引き継ぎ、2018年より「しあわせ信州創造プラン2.0」として目下実施中である。
「しあわせ信州創造プラン2.0」
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/kensei/soshiki/shingikai/ichiran/sogokeikaku/2018keikaku.html
本プランの中で最も重視されているのが、「学びと自治の力」であり、これを推進エンジンとして政策を展開する、とHPでは述べられている。
この「学びと自治の力」について県民の理解を深めるために、各界の有識者、実践者を招いたフォーラムを開催している。その名も、「学びの県づくりフォーラム」。
既に2回開催されており、そのうちの第2回は平成31年3月23日、解剖学者の養老孟司氏をゲストとして行われた。
その様子はYouTubeにて、公開されている。
またYouTubeでの動画のほか、要旨がテキストでまとめられて以下のリンク先に公開されている。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol2report.html
前回と同じく、私自身は本フォーラムを聴講してはいない(そもそも長野県民でもない)のだが、本稿では上記のリンク先のテキストを読んで私が感じたことについて書いていきたい。
経験と行動のループ
自分でやって、その結果を受け入れて、そうしてまたやってみる。これを繰り返す。学習の根本はここにあります。
「学びの県づくりフォーラム 第2回https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol2report.html」
養老氏の言う、学び、学習の根本とは自分でやって、その結果を評価し、それを元に行動を修正する、と言うことである。例えば、「比例」と言う概念はいつ学習されるのか、と氏は問う。つい学校で習うものと考えがちだが、氏によればそれは違う。学校に通い始めるずっと以前、赤ちゃんの頃の経験にあるという。
たとえば、赤ちゃんがハイハイして動く、またはよちよち歩きをする。動くたび、歩くたびに見えてくるものが近づいてきたり、遠ざかったりして、大きさも違ってくるじゃないですか。だけど、もともとの物体は変わらない。これを比例といいます。
「学びの県づくりフォーラム 第2回https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol2report.html」
恐らく学校では、比例という言葉とその意味を教えるのであって、比例という概念自体はもっと以前に自分の肉体を動かし、世界を観察する過程を通じて獲得している、ということであろう。比例というとどうしても、「数学的」と言う先入観が働くが、それは「比例」という「言葉」を数学の授業において学習した、という事だけに過ぎないという事なのだ。
「自分でやって」ということがやはり重要である。他人の経験と言うのは自分で体験しない限りどうしてもフィクションの域を出ず、一種の「おはなし」となってしまう。だから人類の歴史は過去を繰り返すようなことが多いのかもしれない。
また、ここから学習には繰り返しのプロセスを要するということがわかる。これは学ぶという作業は一朝一夕に、すぐできることではなく繰り返す時間をかけてこそ達成できる性質のものであることを示す。
もちろん効率的な学び方、と言うものはあるだろうが、しかし基本的にはある程度の時間をかけてこそ、学ぶことができると言うものだろう。巷には即席で成果をあげる類の教材がわんさとあるが、この種のものがどれほど役に立つか推し量れるというものだ。
そして、時間をかけねば獲得できないからこそ、他人との差別化が測れるということでもある。すぐに達成できる様なことなら誰でもできるのだから、すなわち世の中にありふれたものとなってしまう。時間を要するものにこそ競争力は宿る。
長野県では先に述べたように、「学びと自治の力」を柱にした政策を進めている。学びとは繰り返しを要する時間のかかるプロセスでありすぐに目に見える成果がでるものではない。しかしである。だからこそ将来に目を見据え、じっくりと時間をかけて今から取り組むことで大きな果実を得られるはずだ。決して派手さはないかもしれないが、本政策は陰に日向に長野県の成長を支えていくのではないだろうか。
脳と肉体の相克
システム化された世の中にとって人間はノイズか
感覚を情報に変えてコンピュータで伝達する現代で、生身の人間は「ノイズ」になっているのだと。いま人間は、そういうふうに扱われている時代なんですよ。
「学びの県づくりフォーラム 第2回https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol2report.html」
現代は肉体よりも脳・意識が優先する時代となったと、氏は言う。直感よりもロジック・データ。そのような時代において、生身の人間はノイズとして捉えられているという指摘をしている。間違いないと思う。人間はノイズと見做されている。さまざまな分野で自動化がどんどん進むのはその証左である。
例えば、昨今話題となることの多い、自動車事故のニュースと自動運転関連の議論を見れば明らかである。人間はノイズであり、特に高齢になった場合の扱われようはノイズというよりも、もはや社会のバグのような存在として扱われているようにも見える。
直感 or データ
また、肉体よりも脳が重視された例として次のような体験談を紹介している。
これは、銀行での話になりますが、銀行へ行くと「身分証明書をお持ちですか?」と聞かれます。相手が私だとわかっていても聞かれるわけです。そうすると、私は急にわからなくなる。何がわからなくなるかというと、じゃあ、ここにいるのは一体誰なんだ、と思うわけです。
「学びの県づくりフォーラム 第2回https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol2report.html」
自分が自分であるとは、どういうことなのか。この肉体が自分が自分たる所以ではないのか。身分証明書という外部のデータがないかぎり、自分という人間は社会・システムから認められない、疎外とも言える状況である。
少し話はかわるが、まさしく肉体に根ざした分野であるスポーツにおいても、科学技術の進展により様々な情報(データ)を取得し、解析することが当然となってきた。とりわけ野球の場合は、統計的な考え方が相性のよいスポーツなので、統計学を応用して野球の戦術を考えるセイバーメトリクスというものが発展してきた歴史がある。
しかし、この定量評価、客観評価を重視するあまり、データとして定量評価、客観評価できない(しづらい)現象は評価できないがゆえに、この世にそもそも存在しないがごとく見做す人たちも登場することになった。
例えば、野球における、「得点圏打率はオカルト(=非科学的な指標だ)」、と言う主張は一部に根強い。野球に明るくない方に向けて簡単に言うと、打者が打席に立った時に、走者が、2塁、もしくは3塁と言った「得点圏」にまで進んでいる状況での打率のことである。オカルトであると主張する側は、得点圏打率は、通常の打率に比べて統計的な母数が少なくなることを根拠に挙げている。
当然、打席に入る時に走者がいない、もしくは1塁にしか走者がいないと言うケースもある(と言うか大概そういう場面)ことを考えれば、得点圏打率の母数となる打席数は、通常の打率に比べてかなり少なくなる。
そして統計的に、母数は少なければ少ないほど統計としての精度は低くなる。これもまた当然である。だから、得点圏打率は通常の打率に比べて統計的精度が低くなる。これは当然の帰結である。
しかし、オカルト主張派においては、さらに得点圏打率の統計的な精度が打率に比して低いことから飛躍させて、得点圏でも得点圏でなくても打者の成績の期待値は変わらないと結論づけ、チャンスに強いバッター、弱いバッターとは迷信に過ぎないと言う。しかしここには論理の飛躍がある。
統計的な精度が低いことと、統計で評価しようとしている事象が存在しないこととはまた別の問題である。
Twitterで活躍する野球評論家の「お股ニキ」氏は著書、「セイバーメトリクスの落とし穴」において、極端な客観評価主義、データ偏重主義に対して警鐘を鳴らし、次のように述べているが、正鵠を射た指摘と言える。
あるいは、得点圏打率はサンプル数が少ないから意味をなさないというのもおかしい。チャンスやピンチの場面での精神力は決して運や偶然ではなく、人によって差があることは、人生を経験すれば誰だってわかるだろう。
「セイバーメトリクスの落とし穴」お股ニキ
データ主義に陥るあまり、肉体の感覚を忘れる様は、どこか養老氏が銀行の窓口で体験した出来事に通じるところがあるように感じるのだ。
他にも、養老氏は脳や思考による理解ではなく、肉体感覚に根ざした理解の重要性も語っている。これは脳髄で行う思考重視の価値観から、肉体重視への回帰を叫ぶ、言わば肉体回帰論である。
データは重要である。また論理的な思考もまた重要である。しかし、データでうまく評価できないものの中にも大事なものがある。論理的な思考とは訓練を積むことで誰でも同じような結論に収斂するものである。論理とは手続きであるからである。
しかし、論理だけでは処理できない問題、典型的には倫理的な問題もまた重要である。というか人生において重要な問題、結婚、就職、育児、介護等々何事においてもはっきりとした正解の見えない、論理で処理できない問題ばかりである。そこで如何に判断し対応していくか、は自分の生きた人生に納得するための重要なポイントである。またここは論理的思考のように収斂せず、様々な回答があり得ることになる。さて、論理に頼れなければ何に頼るか。
そんなときに、養老氏が指摘する、肉体回帰論、肌身に根ざした肉体の感覚は頼りになるのかもしれない。
「わかる」ことは「かわる」こと に勇気づけられる
たとえば、重い病気にかかった人が、春になって桜を見ると、もう来年の桜は見られないかもしれないと思う。そうすると、その桜は、普段見ている桜ではなくなるんです。それは、桜が変わったのかというと違う。自分が変わったんです。自分の時間がもうないかもしれない、そう考えた時に「さて、本気で生きよう」と思う。
「学びの県づくりフォーラム 第2回https://www.pref.nagano.lg.jp/kikaku/manabi/forumvol2report.html」
フォーラムの最後には、「わかる」ことは「かわる」こと と言うフレーズが登場する。学ぶことで何かが「わかる」ようになる。するとその人にとっての世界は「かわる」のだ。
例えば、一度読んだことのある本を再読する場合、「わかる」ことは「かわる」ことであると気づかされる。前読んだ時には気づかなかった新たな発見がある時もあるだろうし、場合によっては随分と色あせて見えるかもしれない。いずれにせよ印刷された情報自体は変化していないはずなのに、そこから受ける印象が変わるということは情報を受け取る側の我々が変化したということに他ならない。
それはまた、何かを創造するときにも体感できる。詩や絵画でもあるし、仕事上での成果物もそうである。
例えば、こういう文章を書くときでも、どこまで一生懸命考えてもなかなか納得いくものにはならないし、そうやってできた改心の作も、1年も経ってからみれば相当色あせて見えるものだったりする。だからどうしても、ブログ公開のボタンを押すときには逡巡があったりする。こんなたいした事ない文章を公開して何か意味あるのか、とかバカにされるとか、ネガティブな思いにふとかられたりもする。
しかしそれでも変化していくことをポジティブに受け入れて先に進んでいくことの大切さを、フォーラムの最後、「わかる」ことは「かわる」ことから教えてもらった気がする。
以上、とても素晴らしいフォーラムであり、無料で聴講できる長野県民は非常に恵まれている。次回開催されるようであれば、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。
第一回についての記事はこちら↓
併せて読みたい
読書百遍
学びとは、繰り返しのプロセスと言う指摘が出ていたが、とにかく繰り返す学習方針を端的に示す慣用句がある。
「読書百遍義自ずから見る」である。
この効果を検証するべく実験を行った論文がある。
人間と機械の狭間で : 戦闘妖精雪風
人とシステムの関わり合い、人はシステムのノイズなのか?と言った問題は、神林長平のSF小説、「戦闘妖精雪風」においてよく描かれている。初版は1980年代であるが、今なお決して古さを感じさせない。
セイバーメトリクスの落とし穴 お股ニキ
途中、セイバーメトリクス、得点圏打率のくだりなどは、最近一般のメディアでも目にすることが多い、お股ニキ著の「セイバーメトリクスの落とし穴」が詳しい。