苫野一徳「はじめての哲学的思考」がとても良いので紹介したい

哲学って何、そして何の役に立つの?

この200年あまり、哲学はあまりにむずかしく、そして専門的になりすぎてきた。その壁を、僕たちはそろそろ壊してしまう必要がある。そしてこの力強い思考法を、誰もが自分自身の問題を考えるために役立てられる地図として、明るみに出す必要がある。

苫野一徳 「はじめての哲学的思考」

「はじめての哲学的思考」は教育学者、哲学者の苫野一徳さんによる、哲学的思考の入門書です。世の中の至る所で人々の意見や信念が対立する中で、どのように共通の認識を得て議論を前に進めれば良いか。本書では“哲学的思考”がそのために役立つと説いています。

国家的な課題から、組織や職場について、家族やtwitterなどに至るまで、我々は常に価値観の異なる他者と接しながら生きていくことになります。その時にこの本の内容が役に立つと思います。とても素晴らしい内容なので紹介します。

哲学の成り立ちと宗教、科学

まず、本書では哲学が何に役立つのか、という点を類似の営みである、「宗教」や「科学」との対比を行いながら紹介しています。本記事の前半ではその要約と、私個人の経験談などをまとめます。

哲学は何の役に立つのか?

よくあるこの問いに対して、本書では次のように答えます。哲学は物事の本質をとらえ、他者と共通了解を得るために役立つ、と。例えば、「教育」というテーマについて考えるとき、議論を行うにあたって各人が’教育’の本質について、共通の了解、共通の認識を持っていなければ建設的な議論はできません。このとき物事の本質をとらえるために磨かれてきた学問である哲学が役に立つと著者は言います。

もちろんこの世に絶対正しいことはありません。しかし、それでもこの世界に生きる我々が何につけても“共通了解”にたどりつけないわけではありません。物事の本質について考えることで、多くの人が共通の了解、納得を得ることができる地点にまでさかのぼり、そこから新たな議論を始めるためのツール。それが哲学です。

繰り返すけど、それは「絶対の真理」とは全然ちがう。あくまでも、できるだけだれもが納得できる本質的な考え方。そうした物事の“本質”を洞察することこそが、哲学の最大の意義なのだ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

宗教と哲学

本書では、宗教は人間の精神活動の総合デパートのようなもの、と述べられています。聖なるものへの感受性、“神話”を通じたこの世界の合理的な解釈、共同体との一体化、生きる意味の希求など、人間の精神的な営みのほとんどを包み込んでいる、と。

しかし、そんな宗教にも深刻な問題があると説きます。それは宗教が本質的に真偽を確かめることが不可能な“神話”に基づいており、人種や文化によって全く異なる世界像が林立してしまうということ。

そこで最初の哲学者と言われている「タレス」は自然をじっくり観察してこう考えました。

「生物が生きるのに必要不可欠なのは、水だ。それにまた、世界は広大な海に覆われている。ということは、万物はその根本においては水でできているにちがいない!」

有名な「万物の根元(アルケー)は水である」という説だ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

ここで得られた結論は自然科学の歴史が進んだ我々からしてみれば、受け入れがたい説です。しかしながら重要なことは、ここでタレスが世界を解釈するにあたり、信じるべき“神話”としてではなく、“たしかめあうべき”原理として「水」を提示したことです。この後、このタレスの説には様々な異論が唱えられながら、展開されて現代の自然科学の系譜に連なることになりました。

哲学と科学

となると、哲学の役割は科学にとって変わられてしまい、もはや無用なのか、と思われる方もいるかもしれません。しかしそれは間違いで、今でも哲学は科学と両立する存在であり、母体なのです。

確かにタレスが行っていたようなこの世界の成り立ちや原理原則の解明といった“事実の世界”を取り扱う学問としては哲学は科学にその役割を譲ったと言えるでしょう。しかし、一方で哲学には科学で取り扱えない“意味の世界”を問う学問として今なお健在なのです。

科学が明らかにするのは、いわば「事実の世界」のメカニズムだ。それはたとえば、物を手放せば落ちるとか、DNAは二重らせん構造をなしているとか、人は恋をしている時、脳の腹側被蓋野が活性化しているとか、フェニルエチルアミンやドーパミンが分泌されているとか言った、文字通り「事実」の世界だ。

それに対して、哲学が探究すべきテーマは、“真” “善” “美” をはじめとする、人間的な「意味」の世界の本質だ。

「“ほんとう”のことってなんだろう?」「“よい”ってなんだろう?」「“美しい”ってなんだろう?」そして「人生いかに生くべきか?」

こうした意味や価値の本質こそ、哲学が解き明かすべき問いなのだ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

さらに著者はこう説きます。哲学が探究する意味の世界は、科学が探究する事実の世界に先立つものである、と。つまりいわゆる“事実”は、我々の「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、決して“事実”として認識されることがないからです。

たとえば、天体法則という“事実”が存在するのは、僕たちがこの法則に“意味”を見出しているからだ。

太古の昔から、人類は農耕を行うためにそのメカニズムを知る必要があった。あるいはその“美”に魅せられて、天体を観察しつづけてきた。(中略)

もしも僕たちが、こうした“意味”のアンテナを持っていなかったなら、天体法則や人体メカニズムと言った“事実”は、僕たちにとって存在することさえなかっただろう。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

このあたり、私も含め理系人など自然科学系出身の人は受け入れづらいところかもしれません。しかし、あらゆる学説や理論も世界を解釈するための枠組みであることを思えば、その解釈を行うに先立ち、“意味”が先行していることがわかるはずです。何の“意味”ももたずに解釈することはできないからです。

哲学者のニーチェ(1844−1900)は、次のような有名な言葉を残している。

まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ

と。そしていう。

事実がありうるためには、一つの意味がつねにまず置き入れられていなければならない。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

もう一つ、科学の世界において哲学の扱う“意味”の議論が重要になるのは、意味の共通理解がなければ事実の議論はできない、という点です。つまり“事実”とされるものが人によって異なる場合です。

これは特に社会科学(経済学、政治学、社会学、歴史学、教育学など)と呼ばれる分野において、特に大きな問題になります。たとえば先にあげた、教育の例を用いて、著者は次のように説明しています。よく様々な統計を通じて「学力低下」という“事実”を指摘するグループがいれば、一方そのような“事実”など無いと主張するグループもいて、双方の主張が対立する。なぜ、そのようなことが起きるか、というと一つの理由として、何を“学力”とするか、という“意味”の世界が異なるためである、と。そこがずれているかぎり、議論は噛み合いません。その意味の世界のずれを修正し、議論するための共通の基盤を設定すること、それが哲学の果たす役割なのです。

私自身は、たとえば企業や組織の運営と言った業務上の営みにおいてこのようなことを身近に感じています。たとえば製品を企画する際に、どのような製品を作るべきか、会社に何を持って貢献するべきか、組織の運営はどうあるべきか、などなど、このようなことを考える際にはまさしく、「事実の世界」に先立ち「意味の世界」を扱っていると実感します。

特に私の職種である、PdMでは「意味の世界」を扱う能力が重要だと思います。

製造業におけるプロダクトマネージャーとは こんにちは。当ブログ管理人のkova(@KovaPlus)と申します。私は理科学機器メーカ...

さらに、“事実”の世界と“意味”の世界との関係性で重要なのが倫理的な問題への対処です。「あることが“できる”」としても、そこから即座に「あることを“してよい”」ということにはなりません。科学技術の発展により様々なことが可能になっても、その技術をどう扱うべきか、という倫理的な問題は、“意味”の世界を扱う哲学の力を借りなければ解決することができないのです。

以上で前半はおしまい。続いて後半です。

哲学的思考の奥義とは

後半では、前半の内容を踏まえて、哲学的思考を実践するための心得や進め方について紹介します。

「一般化のワナ」に注意しよう

哲学的思考に進む前の前提として、本書では2つの注意点をあげています。その1つ目がこの「一般化のワナ」です。端的に言えば、自分自身の経験を拡大して一般化しないこと。

人は誰でも自分自身の経験をベースにして考えるものです。でもそうした自分の経験を過度に“一般化”して、それが絶対的に正しいものとして主張してしまうと問題です。往々にして一般化された経験は信念というものになり、手がつけられなくなるものです。

対話や議論において重要なのは、こうした「一般化のワナ」に陥ることなく、お互いの経験や考えを交換しあって、どこまでなら納得し合うことができるのか、その“共通了解”を見出そうとすることだ。

右の例でいえば、「貧困は自己責任だ」とか、「いや、不平等な社会こそが絶対の悪だ」とか、過度の“一般化”をするのじゃなく、たとえば「どのような平等をどこまで実現すべきなのだろう」といった仕方で、お互いの考えをすり合わせていく必要がある。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

自分の信念を、ただ相手にぶつけるのではない。もしかしたらこれが独りよがりな考えかもしれないということを自覚した上で、相手に投げかける。そうやって、自分の考えの“共通了解可能性”を問う。

それが、僕たちが対話や議論をする時に、もっとも大事なことなのだ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

「問い方のマジック」にひっかからない

2つ目の注意点が、この「問い方のマジック」にひっかからない。これはつまり、「二項対立的な問い」には注意せよ、ということです。

本書に挙げられている例で言えば

「教育は子どもの幸せのためにあるのか?それとも、国家を存続、発展させるためにあるのか?」

という問いかけをされた場合、つい答えはそのどちらかだけと思ってしまいがちです。どちらか一方が真で片方は偽である、と。

しかし、この世の中でどちらかが絶対に正しいことなどはほとんどない、特に意味や価値に関する問題ではそうだ、と著者は説きます。にもかかわらず、このような二項対立的な問いは、人々をミスリードしてしまう、と。

そして、そのような問いに出会った時には、二項対立の先の建設的な答えを得るために、問いの建て方を変えよう、と述べています。

教育は、子どものため「だけ」にあるわけでも、社会のため「だけ」にあるわけでもない。ありていにいうなら、それはどちらのためにもある。だから僕たちは、上の問いを本当は次のように変える必要がある。

Q. 教育は、どのような意味において子どもたちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか?

この問いだったら、一定に“共通了解”にたどり着くことはできる。少なくともその可能性は見出せるはずだ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

他にも同様の二項対立的な問いとして本書中に以下の例が挙げられています。

Q. 人間は生まれながらに平等な存在か、それとも不平等な存在か?

Q. 私たち人間が生きている絶対的な理由はあるのか、ないのか?

その他に私が思いつくのはこんな問い。

Q. 家族と仕事 どっちが大切なのか?

配偶者にこう問い詰められて、回答に窮した経験のある人も多いんじゃないでしょうか?私はどっちも大事だと思ってるんですが。様々な案件固有の事情もあるしね。だから、

Q. 家庭と仕事の優先順位は状況に応じてどのように決めるべきか?

という問いにした方がよいと思います。

(まぁ、でもこういうことを問い詰められている時は、問いの建て方が。。。とか言うよりも感情的なイザコザが先に立っているのでそちらをケアした方が良いですけどね。荒ぶる感情の前に理屈は通用しません。)

思考の始発点を置く

注意点2つをまず抑えたところで、いよいよ哲学的思考の「奥義」とされる部分の紹介に入ります。

先にも述べたとおり、この世界で絶対に正しいと言えるものはなかなかありません。そのような世界において、我々はどのように議論を組み立てていけばよいのでしょうか。そこで重要になるのが、「思考の始発点」の設定です。

ここでまず登場する哲学者が、「我思う、故に我あり」で特に有名なデカルトです。

「読書百遍義自ずから見る」はじめは理解できない文献でも百回読めば意味が理解できてくるという言葉だが、本当に効果はあるのか。短期大学にて学生たちを対象にして実地調査を行った研究論文を読んでみた。結果は効果はある、ということだが。。。

デカルトが生きた17世紀のフランスでは、「確かな物など何もない」と言って相手の主張の一切を否定し続ける「帰謬論者」が力を持っていた時代でした。その帰謬論者への対抗策として、実は上記の「我思う、ゆえに我あり」なのです。

帰謬論者たちがいうように、たしかにあらゆる命題は否定可能だ。疑い反駁することができる。

たとえば、感覚は僕たちをあざむくことがあるから、氷は本当は冷たくないのかもしれない。夏は寒いのかもしれないし、冬は暑いのかもしれない。
数学だって、絶対とはいえない。もしかしたら、全員が計算まちがいをしている可能性だってある。(中略)

と、こう考えれば、僕たちはこの世のあらゆることを疑うことができてしまう

---でも本当にそうなのか?
デカルトは考えた。
 どれだけ疑い否定しようと思っても、最後の最後までどうしても疑えないものがあるじゃないか。
 一切を疑っている、この“わたし”自身。世界を疑っているのが“わたし”である以上、この疑っている“わたし”自身の存在は、どうがんばっても疑うことなどできないじゃないか!

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

こうしてデカルトは、帰謬法がはびこる時代に新たな思考の始発点を設定しました。しかし、このデカルトの思考にもまだ問題がありました。デカルトの設定した“わたし”ですらも人はまだ疑うことができたのです。

 昨日の“わたし”と今日の“わたし”が、絶対に同一人物であるかどうか、僕たちは疑おうと思えば疑える。(中略)
 人間の細胞は、数年かかって全部入れ替わるといわれている。だから、数年前の“わたし”と今の“わたし”は、同じ人間じゃないということだってできるかもしれない。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

もっともこうした批判についてデカルトも想定済みで「心身二元論」という理屈で反論しようとしました。物理的な身体としての“わたし”と精神としての“わたし”に分割し、物理的な身体は変化しても、精神的な“わたし”は変化しないのだ、と主張したのです。

しかし、この主張には無理があり納得できるひとは多くありませんでした。

そのデカルトからおよそ300年後の20世紀、ドイツのエトムント・フッサール(1859-1938)が「現象学」という新しい哲学を導入してこの問題にケリをつけました。

 フッサールは言った。
 僕たちがどうがんばっても疑えないのは、精神とか肉体とかいった、何らかの“実体”を持ったこの“わたし”じゃない。肉体はたしかに疑えるし、精神といわれても、いったい何のことやらよく分からない。
 もっとシンプルに、次のようにいおうじゃないか。
 僕たちには、どれだけ疑っても疑えないものがある。それは、今僕たちに何かが「見えちゃってる」「聞こえちゃってる」という、ちょっと難しい言葉を使えば“意識作用”だ。別のいい方をすれば、今僕たちに、何かがたしかに「見えてしまっている」というその“現象”だ!

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

我々に「見えちゃってる」「聞こえちゃってる」疑いようの無い「現象」から生み出される我々一人一人のもつ、「確信」こそが思考の始発点になると著者は説きます。一切は我われのもつ“確信”や“信憑”が基礎になっていると。

だから議論の際には次のように問いかけ合うべきだ、と著者は主張します。

Q. これがわたしの“確信”。ではあなたはどうですか?

 哲学は、ある命題が「真か偽か」を明らかにするものじゃない。何度もいってきたように、お互いの“確信”や“信憑”を問い合うことで、“共通了解”を見出し合おうとする営みなのだ。
 ちなみに、ここでいう“共通了解”にも、絶対的な了解なんてものはもちろんない。どこまで行っても、それは相手との間に了解が得られたという、僕自身の“確信”や“信憑”だ。
 でも、だからこそ僕たちは、この“共通了解”についての“確信”や“信憑”を求めて、お互いにコミュニケーションをつづけていくほかにない。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

世界は欲望の色を帯びている

こうして、思考の始発点として、我々の“確信”や“信憑”を設定することにより、共通了解を得るための議論を始める舞台に立つことができました。しかし、その“確信”や“信憑”は人それぞれ様々に異なるわけですが、それはどのように得られるものなのか。

科学と哲学の関係を説明する際に、意味の世界は事実の世界に先立つ、という話を紹介しました。人は事実を認識する前に、それを解釈するための意味を必要としている、と。実はこれと全く同じように、我々の“確信”や“信憑”もまた意味の世界のフィルターを通して得られるのだ、と著者はいいます。個人にとっての意味のフィルターとは、個々人の持つ、“欲望”や“関心”のことです。

たとえば、僕は今目の前のグラスを飲み水を入れる容器として認識しているけど、なぜそのような“確信”が訪れているかといえば、僕が今「のどが渇いた」「のどをうるおしたい」という欲望を持っているからだ。
 でも、もし僕が今だれかに襲われたなら、このグラスは反撃のための武器として認識されるかもしれない。あまりに退屈な時には、オモチャにだってなるだろう。
 「この人は善人だ」という“確信”や“信憑”もおんなじだ。客観的な善人なんていない。僕の何らかの欲望や関心のゆえに、僕はその人を善人として認識しているのだ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

人が持つ「信念」もまた個人の欲望や関心に基づいて生まれるものにすぎません。我々の身の回りでは様々な場面で「信念の対立」に遭遇します。そんな時、お互いに自分の信念が絶対に正しい、と主張をぶつけ合うだけでは前には進めません。

信念が対立する時は、お互いの信念の背後にある欲望や関心の次元にまで立ち返ってから議論しよう。なぜそういう信念を持つにいたったか、その裏にある欲望、関心から理解するように努めるようにしましょう。その上でこそ建設的な議論が可能になるのです。

話は変わりますが、我々に訪れる「見えちゃってる」「聞こえちゃってる」物事、そしてそこから生まれる“確信”は全て欲望や関心のフィルターを通したものです。世界は欲望の色に染められているのです。スポーツ自転車が趣味なわたしは、街中で走っているロードバイクはすかさずチェックし、どのメーカーの何の車種で、どんなホイールを履いているかまで、つぶさに観察してたりします。しかし、興味のない人にとっては自転車が走っていたことすら認識されないかもしれません。

これは人によって生きている“意味”の世界が異なるということです。だから客観的な世界の認識というのは、欲望のフィルターを通してしか世界を知覚できない人にとっては難しい作業です。時々思うのはアリやカラスは世界をどのように認識しているのか、ということです。人に固有の欲望や関心が一切ない視点とはどんな視点でしょうか。たとえば人々が熱狂しているプロスポーツ、サッカー、野球なども人間以外には意味不明な営みでしょう。

でも仮に、アリやカラスの視点から見たとしても、アリやカラスの欲望や関心に応じて彼らの世界は存在するはずです。そうすると一切の欲望の色を排した無色の客観的な世界の認識というのは、それこそ神の視点になるのか、などと考えます。あるいは、本書の中には仏教で悟りを開いた時の“空”の世界がそれに近いのでは、と書いてあったりします。

ちなみに神林長平のSF小説「アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風」には、この空の世界、人間を超えた無色透明の立場からの世界の認識を表現した箇所があります。とてもすごい描写です。興味のある方は一読をお勧めします。単純に小説としても面白いのは言うまでもありません。この中には、人間に操作される機械としての立場からの世界認識も描かれていてこれもまた秀逸です。

事実から当為は導けない

だいぶ脱線しましたが、話を元に戻します。

次に哲学的思考の極意として紹介されているのが、「事実から当為を導かない」という話です。「当為」とは「〇〇すべし」という意味です。何らかの事実が仮にあったとして、そこから直接「〇〇すべきだ」という主張をすることはできない、ということです。

たとえば、次のような主張を例に引いて本書では説明されています。

「重大犯罪者の脳には、ある共通した特徴が見出せる(その可能性がある)。それゆえ社会は、子供たちの脳を検査して、犯罪者脳の特徴を持つ人間を前もって修養、あるいは矯正教育を施すべきである。」

このような言説、あるいは似たような形式を持つ主張は巷に溢れていますが、この論法は「事実」から「当為」を直接導く誤りを犯しています。

この論法が誤りである理由を、著者は3つあげています。

一つ目は、ここで述べられている「事実」と「当為」との間に、論理的なつながりが全くないこと。なぜ犯罪者の脳に共通点があるという事実が、そうした人たちの収容を直接要請することに繋がるのか。たとえば、そうした特徴を持つ子供たちを見守ろう、あるいは治療薬を開発しよう、という理屈もまた同じように成り立つではないか。要するにある事実から特定の当為だけを導くことはできないのです。

二つ目は、ニーチェが言ったように「まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」という点です。

最後は、この主張が「犯罪者脳」の持ち主とされた人の“欲望”を全く考慮していないことです。

だからある事実を持ってして、直接これこれ「すべし」という結論を導く議論は乱暴な話と言えます。結局、当為とはその人の「〜すべし」という信念に他なりません。そして信念とはその信念を持つ当人の欲望や関心が投影されたものなのです。つまり、事実から直接当為を導く議論というのは、当人の欲望や関心に都合の良い主張にすぎないということなのです。

 第10項で、信念とは実は欲望の別名なのだと言った。
 これは当為についてもまったく同じだ。というか、そもそも信念というのは、それぞれの人が信じている「〜すべし」(当為)のことにほかならない。だから当為もまた、実は僕たち自身の欲望によって作りあげられたものなのだ。
 (中略)
 つまり彼らは、客観的な「事実」に依拠して「当為」を導いているように見せかけて、実は自身の「欲望」に都合のいいように「事実」を利用しているだけなのだ。だからこそ、彼らはある「事実」から特定の「当為」だけを選び出して、これこそ「当為」だと主張するのだ。
 でも僕たちが当為を導くに当たって本当に考えるべきなのは、それぞれの欲望を互いに投げかけ合い、そしてその上で、できるだけみんなが納得できる「べし」を見出し合うことなのだ。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

なお、いわゆる自然科学や工学的研究においても恣意的なデータの解釈は行いがちなので、自覚的になる必要があると思います。そういう時は他人からの指摘や目線が助けになることや、そのような意見に対して心を開いておく姿勢が大事なのも、哲学的対話の姿勢と通じると思います。

“命令”の思想ではなく“条件解明”の思考を

続いて、紹介されている極意が「“命令”の思想でなく、“条件解明”の思考」という話。人を何かのルールに従わせたいとき、ただ「これこれせよ」と命令するのではなく、どういう時に人はそういう行動を取りたくなるのか、を明らかにして条件付けることを説いています。

単に命令をしても、そもそもその命令がどんな時でも絶対に正しいものとは言えないし、命令されたところで従うことができない場面もあるからです。最近の例で言えば、コロナウイルスの蔓延防止策として自粛を呼びかける際の方便で「大切な人がコロナにかかったらどう思いますか?(だから外出を控えましょう)」というメッセージが盛んに発信されたけど、あれはまさに“条件解明”の思考の典型なのではないでしょうか。

また、本書で“命令”の思想に関連して挙げられている「徳の騎士」の概念も興味深いものです。

 「命令の思想」を持つ人は、時に攻撃的になりやすい。自分の信じる正義を掲げて、それに従わない人を断罪するのだ。
 前にも紹介したヘーゲルという哲学者は、そうした人たちを「徳の騎士」と呼んでいる。

苫野一徳「はじめての哲学的思考」

先にあげたコロナウイルスの例で言えば、いわゆる“自粛警察”と言われる行為は命令の思想をもつ「徳の騎士」の部類に入ると思います。でも「徳の騎士」状態になっている人には、自分自身の行為を客観的に捉えて自省することは難しいでしょう。自分自身の欲望と関心に基づく信念を通じてしか世界を捉えることができないわけですから。他人はともかく、少なくとも自分自身が「徳の騎士」になっていないか、冷静に自分の振る舞いを見つめ直す姿勢が必要でしょう。

信念の対立を乗り越えるためには

以上、長くなりましたが、共通了解を得るための哲学的思考の方法について紹介しました。まとめると以下のようになります。

  1. 対立する意見の底にある、それぞれの「欲望・関心」を自覚的にさかのぼり明らかにする。
  2. お互いに納得できる「共通関心」を見出す。
  3. この「共通関心」を満たしうる、建設的な第三のアイデアを考え合う。

これってすごく時間のかかる大変なプロセスだと思いますし、行うためには相互の信頼関係が何より必要となるでしょう。理想論であり、現実には難しいこともあるかもしれません。

でもこのような進め方なくして、より良い社会や組織の運営は成り立たないように思うのです。とても大事な考え方だと思います。まずは多くの方にこのような方法の有効性について知ってもらい、リテラシーを身に付けてもらうことから始まるのではないかと思います。そのための最高の手引きとなるのが、苫野一徳さんの「はじめての哲学的思考」なのです。

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