書評「生物と無生物のあいだ」福岡伸一/動的平衡とテセウスの船

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

夏休み。海辺の砂浜を歩くと足元に無数の、生物と無生物が散在していることを知る。美しいすじが幾重にも走る断面をもった赤い小石。私はそれを手にとってしばらく眺めた後、砂地に落とす。ふと気がつくと、その隣には小石とほとんど同じ色使いの小さな貝殻がある。そこにはすでに生命は失われているけれど、私たちは確実にそれが生命の営みによってもたらされたものであることを見る。小さな貝殻に、小石とは決定的に違う一体何を私たちは見ているというのだろうか。

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

生物も無生物も、それを構成する原子は同じものだ。なのに、なぜ生命は生命と言えるのだろうか。生物と無生物のあいだを、どのように区別できるのだろうか。本書では、この難問に対して、人の生命観の変遷を生物学の歴史とともに振り返りながら、著者の主張する生命観である「動的平衡論」について解説している。

65万部を売った、ベストセラーである。読んだことのある方も多いのではないだろうか。出版からだいぶ時間が経っているが、初めて読んだので感想を以下に記す。

動的平衡とテセウスの船

生物の定義として、現在一般的なものは、「自己複製」の能力であると、筆者は言う。しかし、筆者はそれだけでは不十分で、生物には「動的平衡」と言う大きな特徴があり、これもまた重要だと主張している。

動的平衡とは、「代謝」の能力である。これを福岡氏は、波打ち際に作られた砂の城の比喩で説明している。

波打ち際に作られた砂の城は、波や風によって、もとの砂が削り取られる一方で、同じ波や風の働きによって新たな砂を供給されている。いつかは無くなるにしてもしばらく、城はその姿を保っているが、それを構成する砂は時事刻々と入れ替わり、しばらくの後には当初とは全くことなる砂つぶで構成されることになるだろう。それでもその城は、城としてそこにある時間存在し続けたことになる。この動的な入れ替わりとその中で、「城」という一定の形式、秩序を保つその作用が生命の本質ではないか。要約するとこんなところだろうか。

生物の場合は、水分にしろ酸素にしろ、窒素にしろ日々外界から摂取し、体内でタンパク質やアミノ酸を合成し、一方で老廃物を廃棄していく。このとき「身体」を構成する元素は次々と入れ替わっていく。いわゆる、代謝作用であるが、例えば人間の場合、体の細胞の平均寿命は10年以下とも言われる。少なくとも10年経てば、自分の体を構成する細胞はそっくり入れ替わっているということだ。それでも、その代謝作用を束ねて個体という一定のパターンを存続させているその働きを生命の本質と言いたい、ということである。

このくだりを読んで、思い出した哲学問題がある。それは、「テセウスの船」という問題である。これはギリシャのプルタルコスが挙げた問題で、アイデンティティのありかを問う問題である。

テセウスがアテネの若者とともにクレタ島から帰還した時に使用した船を、アテネの人々は長く保存していた。保存の間、船を構成する部品が朽ちてくると都度その部品を新しい木材で制作した部品に交換していった。このように、次々と部品が交換されていっった挙句、すべての部品がオリジナルから置き換わったとき、その船は元の船と同じ船と言えるのだろうか。

この問題の解答も諸説提案されており、まだ解決はされていない。(そもそも解決できるのかもよくわからないが) ただ感覚的には、機械の場合は同じとは言えないが、我々自身のような生物の場合には、代謝により体を構成する要素が入れ替わっても、同じアイデンティティを持つと感じている。なるほどそこに、生物と無生物との差異を感じるのかもしれない。

しかし、生命とは何かは、観測する側の問題でもあると思う。個々の事物に生物、無生物の本質が宿るのではなく、「我々は」何に生命を「感じるか」という問いだからだ。そういう意味では、生物学だけでなく、現象学と言った哲学の見地からも検討が必要だろう。

「研究の質感」オズワルド・エイブリーの物語

本筋の動的平衡論とは外れるところだが、印象的だった箇所がある。それはオズワルド・エイブリーの物語である。

遺伝子の正体が、DNA(核酸)であることが未解明だった時代、正体と目されていたのはタンパク質であった。これは当時の生物学界の常識であり、誰もが信じて疑わなかったそうだ。

その中で、遺伝子の本体がDNAであることを、綿密な実験から実証しようとしていた人物がいた。それがオズワルド・エイブリーである。

エイブリー自身も、遺伝子の本体として有力視されているのが、タンパク質であることは当然知っていた。だけれども、自分が行った実験結果を説明するには、遺伝子はDNAでなければならない。地道に得られた研究結果を発表していった。

当時の学会からはそんなエイブリーの研究結果に対して、容赦なく批判が行われたそうだ。当時の実験技術の制約もあり、寄せられる反論に対して完璧に回答することも困難な状況だった。それでも、可能な限り実験の精度を高めて研究を進めていったのだ。

結局エイブリーが現役の研究者であった時代には、遺伝子の正体がDNAであることを立証することはできなかった。しかし、その後後続の研究者によってエイブリーの主張が正しかったことが示された。批判にさらされながら、それでも地道に研究をすすめたエイブリーを支えたものは何だったのだろうか。筆者の福岡氏は、自分の手で実験を進めている時のリアリティ、「研究の質感」だったのではないか、と推察している。

おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。

「生物と無生物のあいだ」

研究の質感とは、福岡氏によれば、これは直感とか、ひらめきとは別の感覚であるという。むしろ、「遺伝子はタンパク質だ」、という思考が、ひらめきや直感によってもたらされたものであり、そのもっともらしく魅力的な直感をも押さえ込む圧倒的な研究の質感、自分で体験、経験したそのリアリティが重要なのだと。

直感やひらめき は確かに仕事を進める上での大きな武器である。しかし一方で、実験結果と真摯に向き合うことも大事だ。自分のひらめきに引きづられてデータを恣意的に解釈してしまうことはありがちである。ひらめきや直感を味方にしつつも、落ち着いて冷静に事実を見極め、データを解釈する姿勢が、大事だと再確認した。

現場で感じる空気、自分の中での確信、プロとして大事な感覚だと思った。控えめだけれども、黙々と実験を重ねたエイブリー。この本を読むまで、その名前も知らなかったけれど、とても心動かされるエピソードだった。

まとめ

日本語の表現が巧みで美しさを感じる文章となっている。本記事の冒頭に引用した箇所などを読んでも感じてもらえるのでは無いか。エピローグの文章などとくに素晴らしいと思う。他の作品、例えばエッセイなどがあれば読んでみたいと思った。

併せて読みたい

生命の本質を探る作業は、生物学だけで完結する内容ではないと感じる。生命は存在するものではなく、観察者が感じ取るものではないか。似たような問題として「知能の起源」を探った、「知能はどこから生まれるのか」をおすすめする。

著者の大須賀氏は、知能の起源を探るにあたり、フッサールの現象学の手法を援用し、生物自体ではなく、それを観察している我々がいかに知能を感じ取るかに着目した。シンプルな機構でも環境との相互作用で、複雑な動きを行うムカデロボットでこの難題にチャレンジする。

ゴリゴリの制御工学者であった筆者が抱いた問い。それは知能の源泉とは何なのか、と言うもの。その問いを探るために筆者はムカデ型ロボットを作り、構成論的アプローチからその問いに迫る。そしてその武器は、哲学者フッサールが提唱した、「現象学」である。

タコの心身問題は、同じく知能の起源について、人間と全く異なる肉体をもつ頭足類(タコ・イカ)を分析することで迫る良書だ。先に挙げた、「知能はどこから生まれるのか」とは正反対のアプローチともいえるだろう。

哲学者である著者がタコの生態の観察を通じて、単なる物質である我々にどのようにして知性や心が生まれたのかを探る一冊。タコやイカ等の頭足類が主たる題材ではあるが、そのテーマは頭足類を一つのモデルとして、生物や人間の心の在り方を問う挑戦的な内容だ。