ジャーナリストのペン先に絶対的中立は宿る:神林長平 戦闘妖精雪風

「リン、権力に対抗できるのはジャーナリズムの力だけだ。絶対的な中立を実現できるのは、大学でも裁判所でも教会でもない、ジャーナリストのペン、その先端の小さな一点だけなんだ」
神林長平:「戦闘妖精雪風 アンブロークン・アロー」

神林長平のSF小説、「アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風」の中の一節である。登場人物の1人、リン・ジャクスンはジャーナリストである。一作目から登場するキーパーソンだ。そんな彼女がジャーナリストを志すきっかけとなった、父の言葉が冒頭の引用部だ。

軍に務めていたリンの伯父が、陸軍病院で行われた心臓病の手術中に亡くなった。さほど危険性の無い手術であったのに、亡くなったのはおかしい、と伯母が調べようとしたとき、リンの父は伯母を、即座にそれはやめた方がいいと忠告した。軍の、そして権力というもののを恐ろしさを父は知っていたのだ。

結局、伯母は伯父は戦死したのだと、自分自信を納得させ、追求はしないこととした。しかし、リンは納得できなかった。何か方法はないのか、と聞いた時、父はリンにジャーナリズムの力を説いたのだ。

父の言葉を引き継いでリンが語る

理想に輝いた、強く美しい、精神を高揚させるものがそこには感じられる。しかし、その後にはジャーナリストとして名声を勝ち得た後のリンの言葉が、こう続いている。

まさにそのとおり。そしてそれを実現することの困難さもまた、いまのわたしにはよくわかる。父の言った『ペン先の一点』とは、まさしく理想であって、そこにしか中立点はない、ペンを動かせば必ずそれからずれていく、ということなのだ。それをジャーナリストは常に意識せよ、そうであればこそ権力と闘えるのだ、ということで、この後半の父の言葉の深さは、実際に仕事に就いていくつかの挫折を経験するまで、わたしは気がつかなかった。

神林長平:「戦闘妖精・雪風 アンブロークン アロー」

この文章は重い指摘ではないか。ありのままの世界なるものを我々は認識することができない。個々人のさまざまな人生経験を通じて培われた、価値観でもって世界を「解釈」した結果のみが我々が手に入れられる現実である。

絶対的な中立点はまさに理想としてのペン先にしかあらず、もし仮に絶対的な中立を実現できるとしたら、それは“神”の御技でしかないだろう。しかし、それとても人がそれを理解するためには、個々人が自己の理解できる範囲内でそれを解釈することでしか、できない。

それを心にとどめた上で、我々は自分が認識できる「この世界」で生きていかなければならない。

最近読んだ本「セイバーメトリクスの落とし穴」では、徹底したデータ分析により統計的に野球の戦略を考える、セイバーメトリクスについて、データ分析を盲信することの危険性について論じている。

データ分析とそこから生み出される各種の統計指標は“客観的”な指標で、絶対的に正しい。セイバーメトリクスにさえ準じていればそれで全てが理解できる、という盲信は、セイバーメトリクスですくい取れない世界の姿を見逃すことになってしまう。データで分析できるものを徹底的に重視する、という態度は、データで分析することが難しいものを徹底的に排除することにつながる。

野球経験は中学の部活動(しかも途中で退部)ながら、膨大な野球観戦の経験と、詳細なデータ分析を通じて得られた知見からの的確なコメントが人気のツイッタラー、「お股ニキ」氏による初めての著書。

わたしには、データ分析への盲信と、ジャーナリストの中立性への憧れ、というのはどちらも同じ構造を持つように思われる。データ分析においても、分析者の主観を排除し、理想的な中立的立場をとることは非常に難しいと思う。

さらにデータ分析を行う、当事者が可能な限り中立的な立場で分析を行ったとしても、そのデータを利用する人間はまた異なる人間であることも多い。その場合、データは如何様にも恣意的に加工し、利用することができる。下記の「データは騙る」はそのあたりを詳細に解説してくれる。

データの見せ方により人を騙すテクニックや、そもそもデータ処理に誤りがあるケース、恣意的にサンプリングを行う不正の例などが紹介されている。統計の原理を知らないでデータ処理を行った際に陥る誤謬(バイアス)も多数紹介されており、興味深い。

巷に広まる、ジャーナリズムの言説や、“科学的”“客観的”分析も、そのあたりをよく考えて利用しなければならない。中立点は理想に過ぎず、人の行いには必ず偏りが生じる。神林長平の紡いだ言葉に、改めて感じいるところである。

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