書評:理科系の作文技術 木下是雄



理科系の作文技術 (中公新書 (624))

大学時代にお世話になった助教の先生から教えていただいた本。

実用的(仕事で使える)な文章作成の参考書として、これに勝る本は無いというほどの名著。学生時代はもちろん、社会人になってからも間違いなく役に立つと自信をもって言える。読まないとはっきり言って損をするレベルでおすすめだ。

自分自身、技術者として働く中で非常に有効であった。自分は報告書作成やプレゼンにはかなり自信があるが、それは学生時代の指導いただいた先生方のおかけであるほか、この本に支えられている部分も大きい。


ところで、「理科系の作文」とは一般に使われない用語だと思うが、これはいったいなんだろうか?

これは本書の冒頭にまとめてある。

  • 論文
  • 報告書
  • 取扱説明書


等々である。つまり、相手に対して情報―事実と意見―を正確に最短で伝えるための文書。何かを 報告 するための文章といえる。

それでじゃあ、その「報告」はなぜ必要なんだろうか。

それは、仕事というものは他人から評価されてなんぼだからである。自分がやったことを相手に理解してもらって始めて評価してもらえる。評価してもらえない仕事は存在しないに等しい。そのためには「報告」の作業が不可欠だ。

哲学の思考実験で、「誰もいない森で倒れた木は音を立てるか」という問題がある。観測する人間がいない場合、「音」は定義できるか、というお話だ。様々に議論はあるが、聞く人がいなければ「音」は存在しない(意味を持たない)という考え方がある。

まさしく、仕事と報告の関係もこの通りであり、報告されず観測されない仕事と言うのは評価する立場の人間にとって存在しないに等しいのだ。ちなみにこのとき、評価する立場の人というのは色々あって、上司や同僚、学会のグループ、後輩、部下、お客様など様々だ。お客様に伝わらない仕事というのは自己満足の仕事と言っていいだろう。

このような状況下において、いかに「報告」できるか、自分の仕事の成果を適切に相手に伝達できるか、は超重要なポイントだ。極論すれば、報告技術の巧拙で、自分の行った成果がパーになるかもしれないのだ。

逆に言えば、自分の行った仕事を適切に最大限伝えることができれば、報告技術を高めることで自分の評価を高める余地が十分あるということ。

言い方を変えれば、仕事の評価は、実際におこなった仕事(成果)と報告とのかけ算で決まってくるということだ。

仕事の成果と報告を掛け算した結果が、他人からの評価となる。よって例えば実際に行った仕事が10だったとして、報告が10ならば、評価は100となる。

だけれども報告が1ならば、同じ10の仕事でも評価は10となってしまう。これが怖いところで、自分がいくら頑張ろうとも、頑張ったことは相手にちゃんと伝わって評価されなければ意味がない。最悪報告が0なら評価は0になるし、―10とかなら目も当てられない。

実際に行ったことの内容や品質、意義ももちろん必要となるのだが、それと同じ重みを報告、作文技術は持つのである。(言うまでもないが虚偽の報告は絶対NGだ。あくまで自分のした仕事を正当に評価してもらうための報告技術である。)

よってやり方によっては、5の成果であっても、報告で10頑張れば50の評価を得られるということでもある。ずるいように感じる人もいるかもしれないが、それが事実である。

あなたの仕事は常に誰かのためにやっている仕事であり、その仕事がどれだけ意味があるかは、あなたが決めるのではなく、評価する他人が決めることなのだ。

自分一人で評価まで完結できるのは、もはや仕事ではなくて自己満足のための趣味なのだ。だから報告すること、伝達すること、そしてそのための技術が重要なのだ。


自分がこんなに頑張ったといっても、上司や周りの人だって忙しいのだ。あなたがそれを適切にアピールして伝えない限り、気付いてもらえないのだ。四六時中あなたの監視をしているわけではないのだから。


また、うまく要領を得た報告は、報告を受ける側の人間にとってもメリットがある。すなわち正確な情報を誤解なく、素早く伝えることができるから、報告を理解すること自体の労力が必要なくなるからだ。


これはどういうことか。冒頭で「取扱説明書」も理科系の作文の一種であると紹介したが、この例が分かりやすい。

自分が何かの機器、たとえば洗濯機を購入して、説明書を読んで操作しようとするときのことを考えてみよう。そのとき、分かりやすい取扱説明書であれば、正しい操作方法を、すぐに理解することができ、思い通りに洗濯ができるはずだ。

一方、出来のよくない取扱説明書なら、操作方法を間違えてしまうかもしれないし、単純に文章を理解するのにも四苦八苦してしまう。こういうのって読む側からすればすごいストレスだし、文句のひとつも言いたくなる。そうしたら仮にいい製品だとしても、洗濯機やメーカー自体の評価すら危うくなる。


そこらへんを踏まえて、あなたの作文やプレゼンは、相手からどう受け取られてますか?という話である。タイトルの「読まないと損する」に偽りなしというのがお分かりいただけただろう。


自分の能力も時間も有限だから、限られた資源を有効に最大限活かす必要がある。そのためにはせっかく自分が仕上げた仕事を相手にしっかり伝えてちゃんと評価してもらうことが絶対に大事なのだ。そのためのガイドブックとして、これ以上の本は私は知らない。以下、いくつかピックアップして紹介する。

まず、文書を書く目的を確認せよ

初心の執筆者にとっては、自分の書こうとする文書の役割を認識することが第一の前提である。これはもし確信がなければ先輩に尋ねて確かめなければならない大切なことなのだ。多少は書きなれた人も、筆をとる前に、また書き上げたものを読みかえす前に、いったい読者はこの文書に何を期待しているはずかと、一瞬、反省してみることを勧める。


例えば、研究費の申請書の例が挙げられている。研究費の申請書とは、研究費の配分を審査する人のための文書であり、どの研究にどれだけの予算をつけるべきか判断するための書類である。よって「読んだ人が、研究の「価値」と「成功の可能性」を判定できるような判断の材料を提供しなければならない」ということになる。

主題の選定、あるいはその主題に関して取り上げるべき材料の取捨にあたっては、読者が誰であり、その読者はどれだけの予備知識をもっているか、またその文書に何を期待し、要求するだろうかを、十分に考慮しなければならない。


企業で働くようになって、他人の書いた報告書をチェックする機会も多いが、「そもそもこの文章なんのために書いているのかわからない」、って文章が多い。それはきっと、書けと言われたから書いているだけで、自分でも何にも考えていないからそういう文書になるのだ。これはもう、作文技術の前の仕事に取り組む姿勢の問題にもなってくるけど。

自分がいいたい事を書くわけではない

説明書は、一種の教育を目的とするものである。教育のための最良の道は、いちばん無駄の少ない、くりかえしのない、論理的に筋の通った道とはかぎらない。
機械を設計し、製作するときにとくに意を用いたことでも、使用者が知る必要のないことは思い切りよく省くべきだ。

文章を書くとき、ついつい「自分が書きたいこと」をいっぱい書きたくなるものだ。だけど「理科系の作文」はあくまで評価されるための文書であり、「読者」のための文書である。「読者」にとって必要であり、有益な情報を書かなければならない。

展示会で自分が開発に携わった製品の説明員として立つことがあるが、慣れないうちはついつい自分が工夫したところ、自分がしゃべりたいところばかり説明してしまったものだ。でもお客様が製品を見る目線は、開発者とは全く違う。お客様が知りたい情報を適切に解答しなければならない。

報告書においてもそうだ。研究室の頃は「報告書はあなたの日記じゃない」って、言われたものだ。あなたの書きたいことをつらつら書くのではなく、読者に必要な情報を与えろと。

例えば、研究の進捗状況の報告であれば、どのような計画に沿って、何を実施して、どこまで達成されたか。残りの作業はどのくらいで、このままの計画で終えられるか、の見通しを示すことだろう。でも学生時代はそれが理解できないんだな。

曖昧な表現を避け、なるべく断定しろ。

あいまいな表現はほとんど意味がない。スペースと時間の無駄だ。ということ。「デアロウ」「と言っても良いのではないかと思われる」「とみても良い」といった表現を無くすこと。

理科系の仕事の文書では、「やわらかさ」を顧慮するために「あいまいさ」が導入されることをきらう。やわらかさの欠如は政治的考慮の欠如に通じる。
a)主題について述べるべき事実と意見を十分に精選し、b)それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序良く、明快・簡潔に記述する.

不要なことばは一語でも削ろうと努力するうちに、言いたいことが明確に浮き彫りになってくるのである。

とかく、はっきり言い切ることは日本人にとっては苦手なところで、私自身も苦手だ。だからこそ意識しないといけない。こういった表現を切り詰めることで、報告書も短く簡潔になるし、自分の思考もシンプルに研ぎ澄まされてくる。普段からこのような姿勢で物を考えることができれば、物事の本質をとらえることがうまくできるのではないかな。

なまの情報 の重要性

文章の題材選びとのアドバイス。もし自分で題材を選べる立場ならどうするべきか。

ひろい題目のなかで自分で主題をえらべる場合には、できるかぎり自分自身が直接にことに当たりものに当たって得た情報―なまの情報―、またそれについての自分自身の考えに重点を置くべきである。これらは、たとえ不備であり未熟・浅薄であったとしても、オリジナリティーという無比の強味をもっている。紙の上で得た知識ー他人の報告や論文を読んで得た情報ーは、著者自身の深い考察によって新しい生命を与えられないかぎり、いかに巧みにまとめてみたところで所詮は二番煎じであって、読者に「ウン」といわせることはできない。


ブログの題材選びにも言える。具体的な経験を挙げて、自分の言葉で伝えられるかどうか。説得力は全然違ってくるだろう。

文章だけでなくスライドも

タイトルは「作文技術」なので、文章の話だけかと思いきや、プレゼンテーションやスライドのアドバイスもあり、参考になる。登場する機材は「OHP(Over Head Projector)」とかで時代を感じてしまうが、道具は変わっても本質的な部分は変わっていない。


グラフやスライドのレイアウトは過去記事で私自身が紹介した内容とも重複するところもある。併せて見ていただきたい。

技術者、研究者が仕事をする中で、グラフを書くことは必須の作業です。今まで自分自身がやってきたことや、後輩、インターンの学生たちに指導してき...


「~を報告させていただきます」など丁寧すぎる話し方や曖昧な言い方はNGと指摘がある。この手の丁寧すぎる発表というのはよく見かけるものだが、時間がもったいないし、曖昧さにもつながりかねない。「~を報告します。」に改めよう。限られたプレゼン時間を有効につかうために是非気をつけたい。

併せて読みたい

上野千鶴子の「情報生産者になる」は作文技術も含まれるが、より上位の視点から研究活動や報告のありかたを論じている。文体はこちらのほうが読みやすいか。

「ひとが答えのない問いに立ち向かうための、だれにでもわかり、どこでも通用するノウハウです。」 社会学者の上野千鶴子による、価値のある情報を生産するための方法論。研究者時代の自身の経験や東大や立教大などでのゼミでの指導方法論などをまとめた一冊。

よく書くことと、よく読むことは表裏一体の関係にある。「本を読む本」では、本を深く理解するための読み方を教えてくれるが、その方法を知ることは文章をどのように書くべきか、ということも示唆してくれる。

「本を読む本」は、「読むに値する良書を知的かつ積極的に読むための規則」について述べた本である。 キーワードは「積極的読書」。良く整理・体系化された名著であり、読書家を自認するならぜひ読んでおくべき一冊。
職場の後輩に論理的な思考が苦手な子がいるので、育成するにはどうしたものか考えた結果、以下の本を読んでもらうことにしました。論理的な思考が苦...