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私を支えてくれた、ルソーと「エミール」
ルソーは大好きな思想家です。と言っても読んだことがあるのは「孤独な散歩者の夢想」と「エミール」だけなのですが。
ルソーの特徴は、本人の感情が文章に良く表れていて、本人の感動や喜びや怒りや悲しみが自分のことのように伝わるところ。初めて読んだルソーの著作は「孤独な散歩者の夢想」でしたが、なんと18世紀の思想家の文章とは思えない生き生きとした表現に感銘を受けたのを覚えています。
ルソーの作品の中でも、エミールは仕事をしながら悩んでいた時期にたまたま出会い、すごく勇気付けられた一冊です。他人が作り上げた価値観に従うのではなく、自分自身で考えて生きていくことは間違いじゃないと背中を押してくれました。
教育論として書かれた本ですが、私としては理想の教育を語る過程で、ルソーの理想とした人間像が示されている所に注目して読んでいます。
誰かを教え導く前に自分自身は、どんな生き方をしているんだろうか、という読み方です。
特に中盤の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の下りは、鳥肌が立つほどの興奮だったことを覚えています。
この部分は、一般的にはルソーの示したアウトプットとしての、理神論的な宗教観が注目されていると感じますが、私はむしろルソーがそれに至るまでに辿った思考のプロセスに衝撃を受けました。
自分自身が本当に確信をもって認められることをベースに自分の価値判断の基準、信念を作り上げること。それが自分自身の生に満足するために必要なんだと。
哲学者による良質な解説書
そんな私にとって大切な作品である、「エミール」ですが、他の人がこの本をどう読むのかも知りたく、今回は簡単に読める解説書としてこちらの一冊を手に取りました。
著者の西氏は哲学者ということで、私の我流の読み方とはまた違った整理された視点で述べられており参考になります。例えば以下の箇所。
では、ルソーが「エミール」で描こうとした教育の最終目標はどこにあるのか。それは、「自然人」と「社会人」の対立を克服することです。ルソーの言う「自然人」とは、自分のために生きている存在のことです。それが人間にとって根本的なありかただとルソーは考えています。一方、人間は社会をつくって生きている「社会人」でもあります。自然人として自分のために生きようとすれば、社会のなかで他社に貢献することはできません。しかし、社会人として他社のために生きようとすれば、自分の幸福が犠牲になるかもしれません。その矛盾を乗り越えようというのが、本書の大事な論点です。西研 「100分de名著 ルソー エミール」
自由な人と社会の人の両立ということ。これは自分で読んでいても、あまりぴんと来なかった箇所です。それは自分がまだ自由な人になれていないから、社会的な問題に対する意識がぴんと来ないんだろうか。
でも例えば会社で仕事をしていて、自分の生活と会社の利益を天秤にかけるとき、自由人としての自分と、社会人としての自分がせめぎあっているんだろうか。
人はそれぞれの体験の世界に生きている。
また、後半では自分が兼ねてから感じていたことを、ずばり指摘している箇所がありました。これはルソーの思想というよりも著者の西氏の考えと思いますが、唸らされました。
たとえば、クラスの仲間がある発言をした。それが意外でびっくりしたとき、「なんでそんなふうに考えるの?」と尋ねてみる。すると、その人は「だって、こうじゃない……」と返してくる。そのような対話を通じて、他者にはその人なりの固有の「体験の世界」があって、そこから先ほどの言葉が出てきたことがわかってくる。そうすると、そこからふりかえって、自分自身の体験世界のあり方を自覚することもできてくる。
これは、自分自身も度々感じている問題です。少しわき道にそれるかもしれませんが、私の体験を紹介します。
トイレのノック
私が朝起きてトイレで用を足していた時の事、長女がノックもせずにいきなりトイレのドアを開けてきました。鍵をかけていなかったため、中にいた私と鉢合わせてしまいました。
私は、「トイレのドアを開ける前にはノックして確認しなさい。」と長女に注意しました。
しかし、妻は「鍵もかけずにトイレに入ったあなたが悪い。」と言いいました。長女は悪くない、怒るあなたがおかしいと。
私は、例えば公共の場のトイレならノックするのが当たり前じゃないのか、と言い返したが、冷静に考えれば口論するのもばかばかしい程度の話です。
なぜ、このような見解の差が生じているのか。少し考えて理解しました。
実は私の実家のトイレの鍵は子どもの頃からずっと壊れていて機能しなかったのです。そのような環境では「鍵をかける」という習慣はありえず、お互いに気持ちよく生活するためには「ノックをする」ことが絶対必要だったのです。
その環境で成長した私は、大人になってもトイレは入った人がカギをかけることよりも、ノックをすることが大事という文化の刷り込みが抜けていなかった。それが、妻や子供との感覚の差として現れたのだと。
ディズニーランドのパレードに何を見るか
もう一つ、エピソードがあります。これはもう10年以上昔、今の妻と結婚する前にディズニーランドにデートしに行った時のこと。妻はディズニーランドの大ファンであり、一時は年間パスポートを持っていたほどでした。
お昼のパレードとなり、キャラクター達がフロートに乗ってやってくると、妻は「ミッキー!」「ミニーちゃーん!」と大声で叫んで手を振っています。たまたまキャラクターがこちらを向いて、私たちの方角に向かって手を振り返そうものなら大熱狂です。
ディズニーランドにはほとんど縁が無かった私は、その熱狂の意味がよく分からない。もう大学生なのに、なんで着ぐるみを見てそんな大喜びなんだろうと。(嫌な奴だ。)
だけど、その後も何度か足を運ぶうちに何となく分かってきました。妻はディズニーランドが好きだが、それは元々母親がディズニーランド好きで、子どもの頃から何度も家族で来ていたそうです。おそらく、子どもの頃からの家族での楽しい思い出、幸福感があの場所には凝縮されているのではないか。
彼女がキャラクターを見るとき、それは私の目に見える単なる着ぐるみではなく、彼女の人生の幸福感の象徴として映っているのだ、と。
それが本当かどうかは確かめることはできないのです。本人に問いただしても分からないいでしょう。それでも私はそう考えることで、彼女の振る舞いに自分勝手かもしれないが納得することができました。
過去の経験が作った価値観により世界を認識する
このように、我々が日常生活するうえで、何気なく行動したり、考えたり、感じたりすることは、過去の経験によって作り上げられてきた価値観によります。自分と全く同じ人生経験を持つ人間は存在しない。世界の感じ方が違う、ということは生きている世界が違うのと同じです。
同じものが二人の前にあっても、その感じ取り方や解釈が違う。物の見え方が違い、意識の向け方が違えば、ある人間には、その物が認識でき、別の人間にはその物が認識できないこともざらにあります。本人にとって認識できないものは存在しないのと同義と言えます。
このように、人は同じ世界に産み落とされても、別々の人生経験に基づき、別々の価値観を持ち、別々の認識の世界に生きている。この認識は決して一致させることはできないのです。しかしそこが余りにも乖離していては、一緒に生きていけなくなります。
一致させることはできません。しかし近づけることはできるはず。それは言葉や表現を通じてのコミュニケーションによって可能となります。お互いに住みよい社会にするためには、そういった歩み寄りが必要なのです。
100分de名著シリーズは初めて読んでみましたが、「エミール」についてはコンパクトで分かりやすく良い解説書だと思いました。
ただ、あくまで原著を読んだうえで読むことが必須だし、著者の意見と原著者の意見はよく見極めて区別して読む必要があるでしょう。
それさえ踏まえておけば古典を読む際の良きパートナーとなってくれるはずです。