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視覚が無いから死角が無い?「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読む

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

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目あきは不自由なものだな

幕末期に名を挙げた新撰組、その鬼の副長といえば、土方歳三である。その土方歳三の兄は、土方為次郎といった。目が見えない盲人ではあったが、非常に豪胆な人物だったそうだ。司馬遼太郎が土方歳三の生涯を描いた作品「燃えよ剣」では、次のようなエピソードが紹介されている。(作中では為次郎は為三郎と表記されている。)

若いころ府中宿へ妓を買いに行き 、帰路 、豪雨のために多摩川の堤が切れ渡船の運航がとだえた 。みな 、茫然と洪水をながめているときに 、為三郎はくるくると裸になり 、着ていたものを頭にくくりつけ 、

─ ─目あきは不自由なものだな 。
とそのまま濁流にとびこみ、抜き手を切って屋敷のある石田在まで泳ぎついた
司馬遼太郎 「燃えよ剣」

どうも「目あきは不自由なものだな」は同じく盲人の国学者、塙保己一の言を司馬氏が引用して使ったようだが、為次郎が嵐の川を渡河したことは事実のようである。我々が一般に想像している、目の見えない人の有様からはかけ離れた人物のようだ。この土方為次郎のような事例を聞くと、目の見えない人が感じ取り、理解している世界とはどのようなものか、強い興味を覚える。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、目の見えない人をテーマとして、身体的なハードウェアが異なる人がどのように世界を認識し、世界観を作り出しているかについて調査・考察した結果を紹介する本である。

哲学 美学を専門とし、生物学にも造詣の深い気鋭の著者 伊藤亜紗による読みやすくも画期的な論考。 私自身は晴眼者であるが、そのことを当然の前提として生活している自分たちの認識を相対化し、解体してくれる一冊だ。 おススメします。

なお本書は絵本作家のヨシタケシンスケ氏の絵本「みえるとか みえないとか」の原作にもなっている。そのため、帯の絵はヨシタケシンスケ氏が描いたバージョンがある。

視覚が無いから死角が無い

見えない人の世界の認識の特徴、まずは空間の認識から始まる。見えない人は、あるものを知ろうとする時、模型を触って理解することで3次元的に把握している。例えば富士山の形であれば、立体的に頭の平らな円錐、すなわち円錐台形状として捉えている。

これに対して、晴眼者の感覚はより2次元的となる。これは遠景から見る富士山は遠近感が圧縮されて近似的に2次元として脳が処理しているためである。さらに絵画や写真等に2次元的に表現されてきた文化的イメージとしての富士山を我々は理解しているからだそうだ。我々は現実の世界を、かつて見てきたものを使って理解しているのだ。

晴眼者は目を使って視覚的に世界を捉えているが、それにより立体的な空間の把握能力はスポイルされているのではないかと言う指摘である。


視界を持たないことで、「視点」にとらわれない、という指摘も興味深い。見るためには必ずある点、自分の視点から見る必要がある。我々は意識せずともこの視点に囚われている。ここで視点を決めて何かを見るという事は、何かを見ることを諦める、死角を作ると言う事でもある。

一方見えない人に視点は存在し得ない。これを視覚が無いから死角が無い、と筆者は表現している。視覚を持たないことで、特定の視点にこだわることなく、客観的に自分の周りの状況を感じ取っているようだ。もはや、禅問答のようだが、傾聴に値する。

見えないことによる悟り

現代の文明社会は情報の洪水である。とくにあふれているのは視覚的情報だ。そして、それらの多くは我々の欲望を刺激し、衝動を駆り立てるものだ。ところが、目の見えない人はこれらの情報が、シャットアウトされている。欲望を刺激する情報から隔離されることによる精神が安定するそうだ。

本書に挙げられている、目の見えない人の言葉からは、人生への達観が感じられる。

キャンペーンの情報などは僕の意識には届かないものなので、特に欲しいとも思わない。認識しないものは欲しがらない。だから最初の頃、携帯を持つまでは、心が安定していましたね。見えていた頃はテレビだの携帯だのずっと頭の中に情報を流していたわけですが、それが途絶えたとき、情報に対する飢餓感もあったけど、落ち着いていました。

伊藤亜紗 「目の見えないひとは世界をどう見ているのか」

仏教で言うところの「空」に近い悟りの境地を感じる。すべての目の見えない人がそう感じるとは限らないし、視覚が無いことによるご苦労も多いだろうが、それでも視覚が無いことは単なる能力の欠如ではないことを感じさせられる。

われわれの常識を解体し、価値観を相対化させる

この本を読んでいて、私が好きな落語の噺を思い出した。「一つ目国」という噺である。

一人旅をしている男が、見渡す限りの荒野で小僧と出遭う。小僧の顔をよく見ると、目がひとつしかない、「一つ目小僧」である。この小僧を、見世物小屋に入れれば一儲けできる、そう思った男は小僧を捕まえようとするが、小僧もあわてて逃げ出す。どんどん追いかけていくうちに、街中にまで入ってきた。どうやら小僧の家があるらしい。そこでふと気づいたら、周りの人がみな一つ目ではないか。男に気づいた一つ目たちが一斉に言う。

「あそこに二つ目がいるぞ!見世物小屋に入れてしまえ!」

我々が、普段疑うこともせず当然として使っている「視覚」だが、異なる身体を持つ方からの意見は、そんな常識を疑い、視野を広げてくれる効果がある。それはまさしく、我々の画一的な物の見方、考え方を解体し、相対化するものだ。

「タコの心身問題」でも触れたが、相対化の思想といえば、個人的にはずせないのは、中国の古典、荘子に現れる、「万物斉同」の思想である。荘子と言えば、「胡蝶の夢」がとにかく有名なのだが、ここはそれ以外に下記を挙げたい。

斉物論編 第二 (前略)毛ショウや麗姫(りき)は、人はだれもが美人と考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。この四類の中でどれが本当の美を知っていることになるのか。(荘子 岩波文庫 金谷治 訳)

毛ショウや麗姫(りき)は荘子の時代に絶世の美女とされた女性である。彼女らの周囲には、男たちが群れをなして集まっていたらしい。彼女らを魚や鳥や、鹿に近づけたらどうなるだろうか。魚や鳥や鹿は、彼女らを見て逃げ出すだろう。彼女らを美しいとする基準を持つのは、当時の男たちだけであったということである。

価値観というものは絶対的なものではなく、相対的なものに過ぎないことを鮮やかに示している。美醜の基準が時代や国によって異なることはよく指摘されるが、人間の目線をも越えて相対化を行った荘子。このような思想に紀元前のうちに達しているとは大あっぱれである。中国は侮れないと心底思うのだ。

「目が見えない人」が世界を「見る」

目で眺める晴眼者と、耳で眺める見えない人、はたしてどちらが本当にものを見たことになるのか、この答えはどちらでもなく、うつろいゆくものだ。本書では、障害者と健常者の関係性として下記のような言葉が紹介されている。

「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく、「揺れ動く関係」

まさしく、万物斉同を体現する言葉と私には感じられた。同じ物理的世界を生きていても、異なる肉体を持つことで、こんなにも多様な感じ取り方があるのか、と気づかされる一冊である。新書であり価格的にも手に取りやすく、それでいて知的な刺激に富んだおすすめの一冊である。

併せて読みたい

みえるとか みえないとか :ヨシタケシンスケ

みえるとか みえないとか

上述したように本書の内容を元にして、絵本作家のヨシタケシンスケ氏が、描いた絵本がある。それが「みえるとか みえないとか」だ。以前からヨシタケシンスケ氏の絵本は哲学的な内容を子供にもわかりやすく扱っていて注目していたが、この作品も本書「目の見えない人はどのように世界を見ているか」のエッセンスを上手く絵本化しており、非常に好印象だ。


自分と異なる身体を持つ人が、どのように世界を生きているかを知ることは、子供にとっても生きる上での視野を広げてくれるいい材料となるはずだ。この世に生きるどの人だって生まれつき同じ肉体ではあり得ないのだから。

目の見えないアスリートの身体論

本書の続編とも言える伊藤亜紗氏の記した一冊。

本書では、パラスポーツの中でも目の見えない方の競技ー 陸上、水泳、ブラインドサッカー、ゴールボール ーに着目して、トップ競技者との対談を通して得られた知見について紹介している。

障害は競技内容をスポイルするものではなく、拡張する追加ルール。追加ルールにより、新たな競技性が拡張されて、元のスポーツとは異なる高度な技術や別種の肉体の鍛錬が必要となるのだ。そこには、健常者とはまったく異なる身体や世界の認識に基づく世界がある。

障害は競技をスポイルするものではなく、拡張する追加ルール。追加ルールにより、新たな競技性が追加されて、元のスポーツとは異なる高度な技術や別種の肉体の鍛錬が必要となるのだ。そこには、健常者とはまったく異なる身体や世界の認識に基づく世界がある。

知能はどこから生まれるのか

ゴリゴリの制御工学者であった筆者が抱いた問い。それは知能の源泉とは何なのか、と言うもの。その問いを探るために筆者はムカデ型ロボットを作り、構成論的アプローチからその問いに迫る。そしてその武器は、哲学者フッサールが提唱した、「現象学」である。

「目の見えない人は」のなかで、人は周囲の環境に影響を受けて自分の行動を決定しているという指摘がある。たとえば壁があるからつい寄りかかってしまう。子供の場合なら、よじ登れそうなものがあるからよじ登ってしまう、押せそうなボタンがあるから押してしまう。などなど。これらは、「知能はどこから生まれるのか」で述べられている、環境による陰的制御の例であろう。

タコの心身問題

哲学者である著者がタコの生態の観察を通じて、単なる物質である我々にどのようにして知性や心が生まれたのかを探る一冊。タコやイカ等の頭足類が主たる題材ではあるが、そのテーマは頭足類を一つのモデルとして、生物や人間の心の在り方を問う挑戦的な内容だ。

異なる身体をもつ存在から学び、自分の価値観を相対化させるという観点では、「タコの心身問題」はその極地ではないだろうか。本書では、ヒトと進化の系統が大きく異なるタコが獲得した知性を探求することで心の本質に迫ろうとしている。