社会の役に立つかどうかじゃなくて自分の心に従うこと「空白の5マイル」角幡 唯介

Twitterでたまたま目にした記事に私の目は引きつけられた。

角幡唯介という人、冒険家らしい。「社会の役に立ってなどたまるか」とは何とも挑戦的でロックだなぁ、と思って読んでみた。そしたらえらく感動してしまった。社会の役に立つ、立たないの前に、そこに自分自身の内在的な動機はあるのか?という問いかけ。これってもうずっと自分自身、抱えている問いだ。

なんか今やってる仕事に対しても、最終的なアウトプット、成果物にはなんか虚しさを覚えてしまう。社会に役立つとか、役に立たないとか。なぜだろう。それは今やってることがうまくいっていないことがあり、それに対してちゃんと向き合ってなくて斜に構えてるからかもしれない。ニヒルな感じね。

若くて何も知らない頃は単純にプロダクトを作ってるだけで充実感があった、というか余計なことに考えが及ばず一心不乱にやっていたというか。でも今は余計なことを考えてしまう。

むしろプロダクト自体というよりか、それが完成に至る過程、プロセスには興味があるかも。それをどうやってやるのか?という点。チームビルディング。チームで成果を上げる感覚。他人の力を引き出すこと。自分自身の関心が変わってきたのかもしれない。あるいは自分の技術者としての限界を感じるのかもしれない。そしてそれからの逃避なのかもしれない。結局、こんなことはどこまでいっても答えなんてない。どっちだって良いことなのかも。

自分の内在的な動機は何だろう。自分の気にいるもの、いらないもの。たとえば下記のTwitterの内容は自分にとってはネガティブに感じるもの。引き合いに出してすいません。

車好きの人のための記事かな。車を2年に一回買い替えることを文化にしようという話。1台を長く乗りつがれては自動車メーカーが持たない。それが社会貢献だと言っている。それは社会貢献なのかな?経済を回すという意味では、そうかもしれない。新しいものに変えると気持ちが高揚することもあるかもしれない。だけどむやみやたらに乗り換えることがそんなに何かに貢献することかな?

あるいは、そのために節約して、副業で稼いでローンを払って。。。というその発想。何のために生きてんの?という風に私は感じてしまう。それは価値観の違いだから、とやかく外野が言うところではないが。好きなもの買うためにお金稼ぐの悪いことじゃないじゃん。だけど自分は納得できないし、私は違う生き方をするかな、と言う思い。

一時期は、クリスマス商戦で街角に商品がいっぱい並び、それ買え、やれ買えと言われるのが苦痛だったりした。そして企業で製品開発してる自分も、遠回しには、あれ買え、これ買え言ってる側の人間だよなぁ、なんて思ったりして。ため息をついたりして。

なんか根本的に冷めた感じだ、自分は。哲学・思想の影響だろうか?きちんと訓練を受けずに生兵法でああ言うものを摂取すると厭世的になってしまうところあるかも。

もう一つ、モザンビークで事業を起こす件。面白い話なんだけど、そのあとどうなるんだろうか。燃料をガンガン売った結果、なんかいろんな社会問題とか歪みが出てくるんじゃないか、みたいな取り越し苦労。これって結局世の中の役に立つのかな、みたいなね。収支を計算したらどう言う勘定になるんだろう?揚げ足取りで嫌な感じだ。我ながら。でもさっきの車を2年で買い換えようよりは、すごく共感できる。なんか楽しそうに思える。こう言う生き方は。

そんなことをウダウダと考えている矢先で記事冒頭の角幡唯介さんのツイートを見かけたのである。その中では、社会の役に立つかどうかなんて知ったことではない、とはっきりと言い放っていて、それが今の自分にはとても大事なことに思えた。早速、著書を買って読んでみた。それが「空白の5マイル」。

チベット奥地のツアンポー峡谷と言う地を探検する話である。しかしながら、人類史上初の場所というわけではなく、過去にすでに踏破された場所である。それでも角幡さんは探検にいった。もしかしたらあるかも知れない滝を探しに。ちなみに探検の内容はめちゃくちゃスリリングで面白い。

さて、この件に関しても考えてみればそこに未知の滝があったからだから何?ということである。それを知ろうが、知るまいがどうでもいいじゃないか。役に立つかどうかの話でいえば価値などない。だけど、それを知りたいから、やりたいから危険を冒す。登山も一緒だな。登ったからだから何なのか?

登山は経験ないけど自転車のヒルクライムは経験ある。深夜2時くらいに出発して、真っ暗な林道を登り朝日を見て家に帰る。だから何だというんだ。でもこれが面白いんだな。あれも自分にとっては一種の冒険的イベントだった。常にソロライドで行ったことない峠を進む。今はもうやってないけど。

スポーツもそうだ。サッカーとか球がゴールに入ってだからどうした?でも夢中になったりするものだ。

むしろ冒険家みたいなほうが共感できる。社会の役に立つかどうかなんか知らん、という態度。なんかもう、ロマンがあるから、やりたいから誰もやってないからやる、というシンプルな動機。

役に立つなんかくそくらえ。というあの角幡さんの態度が俺には必要な気がする。冒険としての人生、か。やったことのないことを挑戦していこう、な感じ。モザンビークの話に感じるのもそういうことかな?役に立つ立たないじゃなくてやりたいことをやる。冒険する。冒険が役に立つ立たないの話なら、その冒険譚を耳にしてある男が生きがいを見出せるのならば、それが役に立ったということなのかもしれないけど。

やっぱ、自分がやりたい、と思うことをやることが大事なんだ。だけど人は自由の刑に処せられていて、自由であることが辛い、何をやりたいかを見つけられない、誰かに何をすれば良いか決めて欲しいって時も多々ある。権威とか、基準とか、平均とか比較とか常識etc。私のいままでの歩みは、そうやって何か他人に決めてもらって進んできた一面も否定できない、それがどうにもうまく折り合いがつかなくなってきたんだろうか。

前回聴講したwebinarにしても、最も心に響いたのは「楽しくない仕事は何かがおかしい」というフレーズだった。その根本の精神は、角幡さんの主張と重なる部分があると思う。

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何かにチャレンジしていかないといけない。一人で歩いてみたい。冒険したいのかもしれない。このままでは煮詰まってしまう。だいぶ煮詰まっている。そんなことを考えているのはある意味余裕がある証拠ではあるが。ああ、何をしようかしら。