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引くときと粘るとき
Twitterでフォローしている方とのやりとりで、夜遅くになっても仕事がうまくいかず悪戦苦闘していた。思い切って寝て翌朝続きをやったらとても調子良く仕事が進んだ、という話を目にしました。
これは私自身も何度も経験しており、とても共感できる話です。
仕事を進めていく中では、粘って続けるべき時と、一旦引いて立て直すべき時とをよく見極めることが大事です。考えが煮詰まってしまい、疲労もたまった状態ではなかなか仕事はすすみません。
そういう時は、休憩を取るか、あるいはいっそのことその日は作業をやめてしまい、場合によっては帰ってさっさと寝た方が良いと思っています。
言語学者の外山滋比古さんの「思考の整理学」にはこんな言葉が紹介されています。
「見つめる鍋は煮えない」
根をつめてじっと仕事と向き合っていても、なかなか鍋は煮えてこない、なかなか成果がでない。ちょっと別のことをやったり、休憩を入れたりすると急にすすみ出したりする、ということを表しています。個人的には鍋を火にかける感じよりも、お餅を網で焼く感覚を持っています。
「見つめる餅は焼けない」
です。餅を焼く時はじっと見張っているとなかなか焼けてこない(感じがする)のですが、ちょっとよそ見をするとあっという間に膨らんでいたりするものです。鍋でも餅でも良いですが、いずれにせよ、じっと張り付いてうんうん唸っているよりも、少し時間をおいた方が物事は捗るものです。
ここで、大事だと思うのが上のツイートのリプライでも書いたとおり、休んだり、寝たりする前に一回は真剣にその対象について考えて、しっかりと煮詰めておくことです。ここで一回煮詰めておけば、寝ながらでも考えがまとまっていき、たとえば翌朝にはすごくクリアになります。
ただし、この現象を引き起こすにはある程度は問題と向き合って、煮詰まるまで考えておく必要があります。あまりにもあっさりと引き下がるのはNGです。それはただの先送りというものでしょう。
個人的には寝ながらにして思考が整理される現象を「寝ながら考える」と言っています。パソコンで何か作業している裏で、ウイルス検索が走っている状態、あるいは寝ている間にOSの更新版のダウンロードとインストールが進んでいる状態、のようなイメージです。
だいたい、すくなくとも私自身の場合は徹夜で仕事してもろくな品質になりません。設計の仕事などで無理やり出図の期限に間に合わせるために徹夜して仕事をしても、翌朝見直してみるととんでもないミスのオンパレードということはよくありました。この図面のまま部品を製作してしまったら、そのあとの手直しで膨大な時間を無駄にすることになり目も当てられません。
それであれば、無理して遅くまで仕事をせず、引き際を知って頭をリフレッシュした方が結果的には効率よく作業をすることができるでしょう。
稼働時間が伸びるほど、パフォーマンスは低下します。最終的には生ける屍になります。そんな状態では仮に職場に出張っていたとしても成果は出ないでしょう。逆にミスを重ねて損失を発生させかねません。成果でなく勤務時間で評価する文化の場合こういうことが起こりかねないのが厄介なところです。
簡単な図を描いてみました。まず経過時間に応じて仕事への投入時間を増やすことができます。これは当たり前。
一方仕事の能率は、経過時間が短い間のほうが高く、労働時間が増えていくにつれて低下します。(途中からエンジンがかかりだすタイプの人もいると思いますが、マクロな観点では最終的にこういう形で表せるでしょう。)
成果は投入時間と能率の績を積み重ねたもので表すことができます。絵にかくと下のような絵となり、最初は調子よく成果があがるが、徐々に傾きが寝てきて、最終的にはいくら時間が経過しても、成果は横ばいという状態になります。これが生ける屍状態です。
応用的な煮詰め方とスケジューリング
慣れてくるとこの煮詰まる感覚を覚えてきて、たとえば何回かに分けて煮詰めるとかいう芸当もできるようになります。昨日はこれぐらいまで煮詰めたから、今日はあとこれぐらい煮詰めて一晩寝れば翌朝仕上がりそうだな、みたいな感じで。
また一旦考えたアイデアや仕事を寝かせて熟成させることで、発展させるということもできます。2〜3日から長ければ1ヶ月など、放置しておくことで目線が完全にリセットされ、以前は思いつかなかったような構想が生まれることがあります。
とにかくがむしゃらに仕事に張り付いて力押しするのではなく、一旦引いて待つ、その引き際を知ることができると楽ができるかな、と思います。
ただし、それを可能にするには煮詰める時間を確保したスケジューリングが必要でしょう。翌朝の朝一に締め切りが設定されている仕事で、「今日は帰って翌朝やろう」というのは、かなりの強者でないと難しいはずです。そこまで追い込まれないうちに、頑張って煮詰める→引いてリフレッシュして再び取り組む、のサイクルを繰り返して仕上げていく計画性が求められる方法ではあります。
「悩む」と「考える」の差
「自分で考えて行動する」思想の呪縛
しかしながら、自分自身の過去の仕事のやり方を振り返ると、とても上記のようにスマートに「引き際」を知る働き方はできてませんでした。それは「煮詰める」感覚を知らなかったということ以外に別の理由があったと思います。
過去の私が抱いていたマルチタスクへの無駄な信仰については下記の記事で書いたとおりですが、もう一つの呪縛は自分で考えることへの過剰なこだわりでした。とにかく人に聞かずに自分で考え抜くことへの執着が強すぎました。これが引き際を見失わさせる元凶となっていたのです。
自分で考えて結論を出そうとする、その姿勢自体は決して悪いものではないと思います。むしろ、望ましい態度でしょう。しかしながら、「考える」ことについては落とし穴があります。それは先にあげた記事中でも引用している、安宅和人さんの「イシューからはじめよ」 で述べられている。「悩む」と「考える」の違いです。
悩まない、悩んでいるヒマがあれば考える
「〈考える〉と〈悩む〉、この2つの違いは何だろう?」 僕はよく若い人にこう問いかける。あなたならどう答えるだろうか? 僕の考えるこの2つの違いは、次のようなものだ。
「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てることこの2つ、似た顔をしているが実はまったく違うものだ。
安宅和人「イシューからはじめよ」
僕は自分の周りで働く若い人には「悩んでいると気づいたら、すぐに休め。悩んでいる自分を察知できるようになろう」と言っている。「君たちの賢い頭で10分以上真剣に考えて埒が明かないのであれば、そのことについて考えることは一度止めたほうがいい。それはもう悩んでしまっている可能性が高い」というわけだ。一見つまらないことのように思えるかもしれないが、「悩む」と「考える」の違いを意識することは、知的生産に関わる人にとってはとても重要だ。ビジネス・研究ですべきは「考える」ことであり、あくまで「答えが出る」という前提に立っていなければならない。
安宅和人「イシューからはじめよ」
かつての自分は「考える」というより「悩む」という時間があまりにも長すぎた、と思います。しかし自分が「悩んでいる」という自覚がなく、「考えている」つもりになっていたのです。
なぜ時間をかけても答えが出せないのか、それには様々な理由が考えられます。自分の能力が足りない、知識、経験が足りない、ということもありますが、そもそも解こうとしている問題が間違っている、そもそも解がない問題である、と言ったこともあります。この場合、そもそも「考えても」わかりようがないのです。こういう時はひたすら「考えている」つもりで、ただただ「悩んでいる」だけということが往々にしてあります。
ある程度、経験をつめば自分が「悩んでいる」のか「考えている」のか察しがつくようになり自分で袋小路から抜け出せるようになるのですが、昔の自分はよくこの袋小路にハマってしまい、そのまま時間を溶かし続けることをよくしていたように思います。
結局そういう時は他者の力を借りる必要があります。自分で考えてもよく分からないない時、他人に聞いてみてアドバイスをもらう必要があります。ここもやはり、自分で頑張るべきところと、引くべきところを見極める力が求められます。
要はあらゆる手を使ってでも、成果をあげることが求められているのです。(もちろん法に触れることはNGですし、社会通念上許される範囲で、ですが)そのための引き出しとして、他人に聞くこともありありのありです。「自分で考えること」は確かに大事な信条ですが、極度に盲信するのも問題なのです。
もっとも他人に聞くことができないのは、他人に聞いたら無能と思われるという心理的安全性の問題もあったと思います。これも仕事をすることの妨げになります。社会に出て働く時間が長くなるにつれ、緩和されつつありますが未だに他人に聞くことに抵抗がある性分ではあるので注意したいですね。
以上、仕事の頑張りどころと引き際を見極めて寝ながら仕事をする術、悩むことと考えることの違いについて、でした。