脳髄はものを思うにはあらず 「知能はどこから生まれるのか」大須賀公一 を読む

ノウズイは

ものを思うに

ものを思うにはあらず

ものを思うは

ものを思うは

むしろこの街

大槻ケンヂ:筋肉少女帯「サンフランシスコ」

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知能の源泉はどこにあるのか

ゴリゴリの制御工学者であった筆者が抱いた問い。それは知能の源泉とは何なのか、と言うものであった。その問いを探るために筆者はムカデ型ロボットを作り、構成論的アプローチからその問いに迫る。そしてその武器となるのは、哲学者フッサールが提唱した、「現象学」である。

哲学を現実の工学的な問題に対してうまく応用しようとしている点にすごく共感する。私はこんな本を読みたかったし、私も自分の分野でこういう仕事がしたい!と心から思う。非常にお勧めの一冊であり、研究事例だ。

下の動画は筆者が開発した、ムカデ型ロボットの動画だ。落ち葉や起伏のある地面、障害物を上手く避けて進んでいく様子は、本物の生き物さながらで気持ち悪さすら覚える。このロボットの動きからはロボットが目的を持ち、予測できない地形の変化に上手く対応して進んでいるように「感じられる」。

知能はどこから生まれるのか?(図1.6)i-CentiPot が森の中を進んでいく。 実にうまく木を避ける。

さぞかし、複雑な機構と制御が行われているのだろうと思いきや、このロボットの機構は単純で、柔軟に接続された各関節の脚が一斉に駆動しているだけに過ぎないのだそうだ。特に進む方向を指示しているわけでもなく、なんら制御は行っていない。でも、目の前の環境に対して、自然に体をなじませて進んでいく、その振る舞いに、われわれは知能を感じてしまう。

実は生物のなかにも、脳や神経系を持たなくても「知的に振舞う」動物はたくさんいるそうだ。本書では、クモヒトデの例が紹介されていて興味深い。

われわれは、知能を考えるときに脳や神経系の存在を無条件に前提としてしまいがちであるが、それでは脳や神経系なしで「知的に振舞う」生物の説明ができない。

現象学から捉える知能の起源

そこで筆者が着目したのが、フッサールの提唱する「現象学」である。現象学的に考察すれば、我々が感じることができるのは、すべて自分自身の体に備えられたセンサーを使って得た情報をもとに作られた脳内のイメージであり、それ以外に自分の意識の外を知る術は無い。よって他人の意識を直接経験することはできない。自分以外の知能に関して言えば、我々はいつも自分以外のことに関してはその「振る舞い」を観察して、その知能を推定しているに過ぎない。

よって筆者は生物のなかに「知能発生器」がある、という前提を離れ、知能は感じる側がどう捉えるかという問題と定義しなおした。そこから、知能を感ずるにあたり最小限の要素を調べた結果、それは生物のなかにあるのではなく、その生物やロボットが置かれた「環境」にあった。というのが要旨である。環境に存在する、予測不可能な事象が、知能を感じさせる源泉となっているのだ。

筆者はここから、制御工学にたいして従来考えられてきた制御構造を陽とし、いままで顧みられなかった環境による制御構造を陰の制御と捉える「陰陽制御」を提案している。

例えば、人が成長するにあたって周囲の環境が重要だと言うのは一般的な認識がある。この点で、環境が暗に我々や、生物に影響を大きく与えているのは間違いない。そこを筆者の思想ではより明示的に、直截に捉えており非常に有効な手法かと感じた。

知能はふるまいから観察者が感じ取るもの、という論考なので、実際の動きの様子を読者が観察することが重要だ。そのため、要所要所のポイントでは図のわきに示されたQRコードを読み取ることでyoutubeの動画にアクセスが可能となっている。非常にわかりやすいし良い工夫だと思う。

ノウズイはものを思うにはあらず

本書の最後に、環境により制御されるという陰陽制御学の考え方の一例として下記の例が挙げられている。

ドイツの古都、イェーナに自分と研究領域の近い、同年輩の研究者がいる。自分とそう能力的に違いは無いと思われるのだが、扱うテーマの奥深さやスケールの大きさが自分には敵わない(と感じられる。)。

筆者の大須賀氏は、ハードウェアがそんなに違わないのに、彼となぜ差が生じるか、と考えて、はたと気づいた。これはせかせかした日本という環境と、ドイツのゆったりとした時間が流れる古都の環境の違いによるのではないかと。

このくだりを読んだ私は、反射的に筋肉少女帯の「サンフランシスコ」を想起した。

「ノウズイはものを思うにはあらず、ものを思うはむしろこの街」

まさしく、冒頭に引用したトラウマパンクの奇才、大槻ケンヂの詩の通りではないか。筋肉少女帯万歳!

なお、「脳髄はものを思うにはあらず」自体の出典は、これまた探偵小説界の奇才、夢野久作の「ドグラ・マグラ」内の論文「脳髄論」である。脳髄論における脳髄はものを思うにあらず、むしろ体を構成する個々の細胞が太古からの進化の記憶を持ち思考している、という内容だったと思う。そこに環境の要素はない。

これに、「ものを思うはむしろこの街」と付け加えた大槻ケンヂは、陰陽制御をすでに見出していたのであろうか。

「サンフランシスコ」の内容を見てみる。かつて恋仲だった男女が住む街に、「サーカス」がやってくると、過去の思い出がよみがえり、上手く行くはずのない恋にまたとらわれてしまう。だから、サーカスがやってくる前に、お別れをしよう、というような趣旨である。

なるほど、これもまた「サーカス」という環境によって、自分たちの心が影響を受けてしまうという陰的制御の形を歌っていると言える。それを「ものを思うはむしろ、この街」という詩で歌った大槻ケンヂはやはり只者ではない。

最後は、いささか筋肉少女帯に脱線してしまったが、哲学を現実の問題解決に銅役立たせるか、という面でとてもよい事例になる一冊と思う。欲を言えば¥2,500近い価格はもう少し安ければ、例えば¥1,800ぐらいであればもっと手に取ってもらいやすいかもしれない。なかなか部数が見込めない本だと思うので、厳しいとは思うのだけれども。

ちなみにタミヤ模型から、このムカデロボットを再現したプラモデルが発売されている模様。

タミヤ 楽しい工作シリーズ No.230 ムカデロボット工作セット 70230

併せて読みたい

「タコの心身問題」もまた、こころ(知性・知能)の起源に迫った本である。知能のリバースエンジニアリングを試みた「知能はどこから生まれるのか?」に対して、「タコの心身問題」では、ハードウェアや進化的背景が人間と全く異なるタコを分析、解析することで、こころの起源を探っている。

この中で、タコの知能の高さの一因として「体の柔らかさ、不定形性」についての指摘があるのは興味深い。不定形の体を制御するために、神経系が高度に発達したことが知能が発達する要因ではないかと推測しているが、「知能はどこから生まれるのか?」の逆制御学の考察を取り入れるとどう解釈できるだろうか。

また、「知能はどこから生まれるのか?」においても、どのようなロボットは固すぎる、知的なふるまいをさせるためには柔らかいロボットでなくてはならないと指摘している。

このあたりの、相違点と類似点は考えてみると面白い。

哲学者である著者がタコの生態の観察を通じて、単なる物質である我々にどのようにして知性や心が生まれたのかを探る一冊。タコやイカ等の頭足類が主たる題材ではあるが、そのテーマは頭足類を一つのモデルとして、生物や人間の心の在り方を問う挑戦的な内容だ。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、目の障害で視覚を失った人がどのように世界を認識しているか探ることで、人間が世界を認識する方法の多様性をしめした良書である。

この中には、周囲の環境に我々がいかに影響を受けているかについての記述がある。ここは、「知能はどこから生まれるのか?」における環境による制御の指摘に通じる部分である。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、目の見えない人がどのように世界を認識し、世界観を作り出しているかについて調査・考察した本だ。 晴眼者であることを当然として生活している自分たちの認識を相対化し、解体してくれる一冊だ。

「知能はどこから生まれるのか」において、筆者は哲学・思想を原著から学ぼうとしたが、難解すぎて挫折し現代日本の哲学者の解説書を読んで学んだそうだ。中でも、影響をうけた日本の哲学者として、西研氏、竹田青嗣氏、戸田山和久氏の3人が挙げられている。

下記の「100分de名著 ルソー「エミール」」はフランスの思想家・哲学者ジャン・ジャック・ルソーの思想について、西研氏が解説した本である。ルソーの場合は原著も抵抗なく読める部類だとは思うが、この解説書は非常にわかりやすいのでお勧めである。

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