司馬遼太郎:酔って候「伊達の黒船」蒸気機関を完成させた貧乏職人

新装版 酔って候 (文春文庫)

幕末期、ペリーの黒船が来航してからたった7年という短期間で日本は国産の蒸気船を開発した。日本技術史上初の偉業を成し遂げたのは、90万石を誇る西国の雄藩、薩摩藩である。薩摩藩では藩の一大プロジェクトとして藩の英知をつぎ込み、また海外から技術者を招聘し完成まで漕ぎ着けた。

その薩摩藩の偉業から遅れることわずか数日後、もう一隻の蒸気船が完成していた。製作したのは伊予、宇和島藩。薩摩藩とは異なり、新しもの好きの殿様の鶴の一声で製作されたその蒸気船。なんと蒸気機関を開発したのは、身分階級の最下層出身で手先の器用さだけが取り柄の提灯張り職人であった。

司馬遼太郎の短編集、「酔って候」のなかの一編、「伊達の黒船」は困難なミッションに立ち向かった職人、嘉蔵とそれを命じた殿様、伊達宗城を描いた逸品である。

技術の壁と身分の壁

嘉蔵はしがない提灯張り職人。町人としては最下級の「裏借家人」として、道の落ち穂を拾うようにして生きていた。つらつきも悪ければ、商売も下手。あまりの貧乏さに嫁にも逃げられる有様の中年男であった。

たった一つの特技は、異常なまでの手先の器用さ。その器用さを普段から懇意にしていた旦那の清家市郎左衛門から推挙され、藩の蒸気船づくりプロジェクトの実質的な主担当者に抜擢されてしまう。

蒸気船など見たこともない嘉蔵、失敗すれば後がない状況に追い込まれるが、そこは天賦の才でわずか15日後には試作の機構を完成させてしまう。これが伊達宗城に献上され、宗城は大喜び。実際のところこれは嘉蔵の思いついた蒸気機関とは全く別物のからくりであったようだが、だれも蒸気機関の何たるかを知らない時代、必ずや蒸気機関は完成できるとの期待を背負い、嘉蔵はオランダの蒸気船を見るために、長崎に派遣され、研究開発の日々が始まる。

身分制度の厳しい時代の話、藩命を背負っても卑賤の身の嘉蔵には、技術的な課題だけでなく、出自からくる差別とも戦わなければならなかった。

とはいえ、当時の人々は空気のように身分制度とともに生きていた。戦うと言っても嘉藏自身そういう扱いに慣らされてしまってもいる。ただひたすら耐え忍ぶことしかできない。身分制度の重石も、日常のなかに当たり前に存在していれば、意識にもあがらず人は慣れてしまうものだと感じた。

失敗も経験しながら苦難の末に遂に嘉蔵の蒸気機関を乗せた船は走る。

が、しかし船体に対して蒸気機関が小さすぎるため、その性能に満足がいかない嘉蔵。船体を設計した村田蔵六(のちの大村益次郎)に愚痴をこぼすが、村田の返した一言が秀逸。ぜひ読んで確かめていただきたい。

予備知識も教育も無い状態から、開発期間数年で国産の蒸気機関を完成させ船を自走させた、嘉蔵の努力と隠れた才能に驚嘆する。

技術史上の特異点であり、異常とも言ってよい事件だが、歴史を見れば他国の先進技術を取り入れるのは日本人が様々に行ってきた事でもある。島国で途絶されている事がバネとなり、より吸収力を高めるのであろうか。

嘉蔵の船が走り感極まる嘉蔵の姿を見たとき、同じ技術者としてなおさらグッとくるものを感じた。

嘉蔵と対比的に描かれた殿様 伊達宗城

実行部隊として、開発に携わるのは最下級の町民、嘉蔵だが、命令を下したのは藩のトップである、藩主、伊達宗城である。伊達宗城は幕末の四賢公に数えられるほどの名君であったが、それでも世間知らずの貴族としての一面もある。本作ではそんな伊達宗城の様子が描かれており、可笑しさがある。

諸侯が集まった折、我慢できずに「当家では、黒船を造らせております。」と得意満面で言ってしまうところなど、読んでいて面白い。

また、嘉蔵の初めての蒸気機関は試運転で動かず失敗してしまうが、そのときの対応がよい。

その殿である伊達宗城は失敗の報告をきいても、さすが明君といわれている人物だけに顔色も変えず、

「当然だろう、初手から成功する筈がない」

といった。

司馬遼太郎「伊達の黒船」

この落ち着きぶり、まさに明君、である。

「伊達の黒船」は小品であるが、司馬遼太郎らしい魅力的な作品である。酔って候は幕末の四賢公をテーマとした作品集である。ほかには土佐の山内容堂公を扱った、タイトルにもなっている「酔って候」もおすすめ。

併せて読みたい

同じく幕末から維新への激動期を技術者として駆け抜けた、村田蔵六(大村益次郎)の生涯を描いた作品。嘉蔵の蒸気船においては、船体部分の設計・開発を行った。

職場に、この作品が大好きと語る人がいるが、無口で不愛想な感じは村田蔵六そっくりである。