脱システムへの衝動 角幡唯介 「極夜行」

前回紹介した「空白の5マイル」に引き続き、冒険家の角幡唯介氏の作品「極夜行」の紹介である。非常に面白くて一気に読んだ。まとめるだけの気力がないので、抜き書きとコメントを並べただけ。

Twitterでたまたま目にした記事に私の目は引きつけられた。 角幡唯介という人、冒険家らしい。「社会...

今回の冒険は、北極の冬、太陽が終日登らない極夜の続く期間、犬のみを相棒として北極海を目指して旅をする、というもの。地理的に未踏の地、というわけではないし、同様の旅をした人がかつていないわけでもない。なのに、このような極地での冒険を行う理由は何か。それは人の作り上げた文明から”脱システム”すること。

今回の探検は一応、北極海を目指すという地理的な到達点をひとつの目標にしているが、真の目的は地理的にどこかに到達することではなく、極夜世界そのものを洞察することにあった。探検・冒険行為の核は脱システムすることにある。常識や科学知識や因習や法律やテクノロジー等々の諸要素によって網の目のごとく構成されているこの目に見えない現人間界のシステムの外側に飛び出すこと。それこそが冒険と呼ばれる行為の本質であり、そのシステムの外側の領域で何がしかを探索することが探検と呼ばれる行為だ。

角幡唯介「極夜行」

犬と人間の関わりあい

犬と人間の共存関係。

現代の先進国では、犬は人間の欺瞞を象徴するような存在と化している。表向きは愛玩犬としてひたすら可愛がられ愛護されているように見えるが、見えないところでは、不必要とされた犬が保健所で殺処分されているし、犬を可愛がるという一方的な欲望を満たすために無駄なブリーディングを施して奇形としかいいようのない犬種を生み出してもきた。どんなに愛護的に扱っていようと、根底において人間は恣意的に犬を扱っているわけで、都合のいいときにその時々にあった仮面を使い分けている。つまり先進国における人間と犬との関係を徹底的に煮詰めれば、最終的には人間の側の薄暗い欺瞞しか残らない。

角幡唯介「極夜行」

しかし、村にしばらく滞在するとそうした見方が表層的なものだと感じられてくる。この村で築かれている人間と犬との関係は残酷だとかそんな短絡的な感情で価値判断できるものではなく、もっと深いものがあるのではないかと思えてくる。つまり人間は労働犬として犬を支配しているように見えるが、人間のほうも歴史的に犬橇がないと狩猟旅行に出られなかったわけで、その意味では犬のほうが人間の生を支配しているともいえる。要するに、どちらが支配しているとか、そういうことではなく、いわば相互依存で暮らしており、人間と犬がお互いに協力することで両者はこの極寒の世界を生き延びてきたんだなぁということが、村にいるとひしひしと伝わってくるのだ。

角幡唯介「極夜行」

肉体感覚を通じて世界と繋がる

このあたりの表現は素晴らしく美しいと思う。私が自転車で走るのが好きだったのは、自転車を介して足で地面を蹴り、登り坂ではその勾配に応じた重力を、向かい風では自らの乗車姿勢に応じた空気抵抗を受けながら、環境と一体になって走る感覚を好んだからだ。極夜の旅とヒルクライムでは全然違うんだけど、でも根っこにつながりを感じた。

風景が美しく見えるのは、私が単なる観光客としてこの場にいるからではなく、生きようとする一人の人間としてそこにいるからだった。私のまわりで展開している闇や星や月は見た目の美しい観賞物としてではなく、私と本質的な関係をもつ物体や現象として、そこにあった。私は天体をよすがに旅をし、闇は私を支配する。こうした状況により、私はこれらの諸要素と相互に機能しあう環世界の中に完全に入り込んでいるわけだった。私はそのことを実感しながら歩いていた。

角幡唯介「極夜行」

GPSを使えばたしかに安全で便利にはなるし、われわれ現代人は便利で安全であることが最上の価値だと思いこんでいるが、冒険の現場においては便利さと安全性は必ずしも最上の価値ではない。どれだけ自力で行為して、自分の力で命をつむぐことができるか、冒険の意義や面白味というのは結果ではなくそうしたプロセスの中にこそある。

角幡唯介「極夜行」

闇と光の意味

人間が本能的にもつ闇にたいする恐怖は、よく言われるように原始時代に野生動物に襲われたときの記憶が集合的無意識に残っているから、とかそういうことでは多分なくて、単純に見えないことで己の存立する基盤が脅かされていることからくる不安感から生じるのではないだろうか。

角幡唯介「極夜行」

われわれは普段、あらゆる事物に言葉を与えて意味化して、同時に言葉によって特性を浮かびあがらせた事物を満遍なくいきわたらせ、それらにとりかこまれることで世界をつくりあげている。それなのに光のとどかない闇空間では物体をさす言葉自体が消失しており、私を存在させてしまっている世界そのものが溶けてしまっている。闇の世界が未発の世界だというのはそういうことである。闇の空間は言葉以前、言葉が世界を構成する以前の世界であり、あらゆる物体は固有化され意味化される以前の状態に差しもどされている。このような未発の世界では物体の輪郭線は明確ではないので、椅子と机の輪郭がお互いに混ざりあって融合する、というような普段ではありえない状態が発生する。各物体は本来、光のもとで適切な位置を占め、秩序だって整然と存在しているはずなのに、光がなくて輪郭線が消失しているせいであらゆる物体が位置を失い、ぐにゃりと溶けあって、混在したカオスと化しているのだ。

角幡唯介「極夜行」

一番強固なシステム

同感である。生まれたときにすでに組み込まれてしまうのが、家族というシステムである。配偶者とならいざ知らず、両親との関係で言えば自分の生の最初のきっかけがそこから始まっているので脱システムは難しい、というよりどこまで行ってもできない。書類上や頭の中ではシステムから逃れえたとしてもだ。

情をもとに結びついた人間関係の深さは、私の書生めいた脱システムの理想よりはるかに強固で、人間社会のあらゆるシステムの中で最も脱システムするのが難しいのは、じつは太陽でもGPSでもなく家族だということを私は今度の旅で嫌というほど痛感したのだった。

角幡唯介「極夜行」