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箴言を多く残した哲学者 の読書論
アルトゥール・ショーペンハウエル は18世紀~19世紀に活躍したドイツの哲学者である。主著は「意志と表象としての世界」であるが、今回紹介する「読書について」も広く読まれている著作である。内容は、その名の通り読書論である。
多くの箴言を残したことで知られるショーペンハウエルだが、「読書について」にも多くの金言が含まれている。
今回は、岩波文庫版の「読書について」を題材としたい。この本には、以下の3つの著作が納められている。
- 思索
- 著作と文体
- 読書について
3つあわせて150ページに満たない分量だが、その内容はずっしりとした重さがある。このなかから、読書に関連の深い話題の「思索」と「読書について」を紹介する。
思索
「思索」は、
- 自分自身で考えることの大切さ
- どうやって自分自身で考えていくか
について述べている。哲学者らしく自分自身で設定した問題を、自分自身で徹底的に考え抜くことの大切さが繰り返し述べられている。
知識は量が問題じゃない
数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。
思索1 P.5
「思索」の一番最初の部分であるが、最初からうならされる文章である。日ごろから読書が趣味で熱心に読書をされる方は、はっとさせられるのではないか。
他人からのお仕着せや借り物の思想ではなく、自分の血肉とできるか、は自分が主体的に考えているかどうかで結果が分かれるだろう。自分で考え抜いた知識こそが頼りになる。
現代は様々な情報が身の回りに溢れている。あれもこれもと気にしだしたらキリがない。本当に頼りにできるのは、自分で経験して自分で獲得した知識や思想ではないか。
自分自身が考えたり、経験した第一次的な情報が大事、というのは本ブログで紹介した他の本でも述べられていることだ。
自分で考えることが大事
したがってこのかぎりでは、真の思索者は君主に類似している。彼はだれの力も借りず独立の地位を保ち、自らの上に立つ者はいかなる者も認めない。その判断は君主が決定する場合のように自らの絶対的権力から下され、自分自身にその根拠をもつ。すなわち君主が他人の命令を承認しないように、思索者は権威を認めず、自分で真なることを確かめたこと以外は承認しないのである。
思索9 P.18
哲学者は誰でもそうである。他人の権威を借りず、自分自身の力で考え、判断する態度を強い表現で語っている。一番大事なのは自分の問題意識である。他の誰かが正解を知っているわけではない。
読書について
読書とは
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。(中略)さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
読書について 2
有名な一説である。自分で考えずに受動的に読むだけであれば、本を読んでも得られるものは少ない。ここでも自分で問題意識を持つこと、そして本の内容を自分のこととしてよく考え抜くことが強調されている。
なお、ショーペンハウエルは、本を読むこと自体を否定はしていない。上に挙げた「思索」のなかにおいても、「思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない」との指摘があるとおりである。とにかくショーペンハウエルが言いたいのは、自分で考えることの大切さである。
どういう本を読むか
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
読書について 6
何かをするということは、他のすべてのことをやらないと言うことである。我々には多くの選択肢がある。どれを選ぶかが肝心。現代にはあまりにも多くの出版物や情報があふれており、それに対してわれわれの時間と能力はとても限られている。
われわれがアクセスできる情報全体から見れば、われわれが実際に読んで、理解することのできる情報はあまりにも限られており、近似的にはほぼゼロに等しい。
そこで、何を読むべきか、だが、ショーペンハウエルが勧めるのは、とにかく古典である。外山滋比古的に言えば、それは時の試練に耐えてきたから、というところである。書店に並ぶ本のうち、たった10年後であっても、どれだけの本が読み継がれているか、と想像してみると世の中に読むべき本がどれだけあるのか、と考えさせてくれるだろう。
ショーペンハウエルの考え方として古典礼賛に偏っているところが強いが、それでもその指摘は参考になると思う。読み継がれる本にはそれだけの理由がある。この「読書について」もまさに古典であり、一読に値するといえるだろう。
「著作と文体」をちょっとだけ
ショーペンハウエルが当時の”ドイツ語の乱れ”について、嘆く内容である。大学生時代の第2外国語はフランス語だったので、ドイツ語の話はよく分からないが、ショーペンハウエルが怒っているのはよく伝わる。
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フランスの精神分析学者による一風変わった読書論。そもそも「本を読む」ってどういうことなのか、というところから徹底的に考察している。その結果から、「読んでいない本について堂々と語る方法」が導き出されるのだが、フランス人らしいユーモアや皮肉の効いた一冊である。