トイレのノック
以前こんな事があった。私が朝起きてトイレで用を足していた時の事、長女がノックもせずにいきなりトイレのドアを開けてきた。鍵をかけていなかったため、中にいた私と鉢合わせてしまった。
私は、「トイレのドアを開ける前にはノックして確認しなさい。」と長女に注意した。しかし、妻は「鍵もかけずにトイレに入ったあなたが悪い。」と言った。長女は悪くない、怒るあなたがおかしいと。私は、例えば公共の場のトイレならノックするのが当たり前じゃないのか、と言い返したが、冷静に考えれば口論するのもばかばかしい程度の話である。
なぜ、このような見解の差が生じているのか。少し考えて理解した。
実は私の実家のトイレの鍵は子どもの頃からずっと壊れていて機能しなかったのだ。そのような環境では「鍵をかける」という習慣はありえず、お互いに気持ちよく生活するためには「ノックをする」ことが絶対必要だったのだ。
そこで成長した私は、大人になってもトイレは入った人がカギをかけることよりも、ノックをすることが大事という文化の刷り込みが抜けていなかった。それが、妻や子供との感覚の差として現れたのだ。
ディズニーランドのパレードに何を見るか
もう一つ、エピソードがある。これはもう10年以上昔、今の妻と結婚する前にディズニーランドにデートしに行った時のこと。妻はディズニーランドの大ファンであり、一時は年間パスポートを持っていたほどである。お昼のパレードとなり、キャラクター達がフロートに乗ってやってくると、妻は「ミッキー!」「ミニーちゃーん!」と大声で叫んで手を振っていた。たまたまキャラクターがこちらを向いて、私たちの方角に向かって手を振り返そうものなら大熱狂である。
ディズニーランドにはほとんど縁が無かった私は、その熱狂の意味がよく分からない。もう大学生なのに、なんで着ぐるみを見てそんな大喜びなんだろうと。(嫌な奴だ。)
だけど、その後も何度か足を運ぶうちに何となく分かってきた。妻はディズニーランドが好きだが、それは元々母親がディズニーランド好きで、子どもの頃から何度も家族で来ていたころの影響が大きい。おそらく、子どもの頃からの家族での楽しい思い出、幸福感があの場所には凝縮されているのではないか。
彼女がキャラクターを見るとき、それは私の目に見える単なる着ぐるみではなく、彼女の人生の幸福感の象徴として映っているのだ、と。
それが本当かどうかは確かめることはできないだろう。本人に問いただしても分からないと思う。それでも私はそう考えることで、彼女の振る舞いに自分勝手かもしれないが納得することができた。
過去の経験が作った価値観により世界を認識する
このように、我々が日常生活するうえで、何気なく行動したり、考えたり、感じたりすることは、過去の経験によって作り上げられてきた価値観による。自分と全く同じ人生経験を持つ人間は存在しない。世界の感じ方が違う、ということは生きている世界が違うのと同じだ。
同じものが二人の前にあっても、その感じ取り方や解釈が違う。物の見え方が違い、意識の向け方が違えば、ある人間には、その物が認識でき、別の人間にはその物が認識できないこともざらである。本人にとって認識できないものは存在しないのと同義である。
私は自転車が好きで、自転車を構成する各部の構造や、機構をそれなりに認識している。ところが巷にある自転車のイラストを見ると、結構な割合で不正確なものが多い。たとえプロが描いたイラストであってもだ。それも、単純化のためにあえて省略して描いた、と言う物ではなく、根本的におかしなイラストになっていることがある。
「野球猫チータン ©NIPPON ANIMATION CO., LTD.」
たまたま手元にあったイラストで言えば、この自転車にはチェーンステイが無い。チェーンやブレーキが書かれていないのは、簡略化のため省略していると理解できるが、チェーンステイが無いのは奇異に見える。しかしそもそも奇異に見えるという感覚自体が、自転車に触れ親しむことで養われた結果。これも、自転車に興味がない人間から見たら何が「奇異」なのかさっぱり分からないだろう。他にもフォークにオフセットが無い、とか指摘できるがそのあたりは自転車オタクでないとさっぱり通じない感覚だ。
このように、人は同じ世界に産み落とされても、別々の人生経験に基づき、別々の価値観を持ち、別々の認識の世界に生きている。この認識は決して一致させることはできない。しかしそこが余りにも乖離していては、一緒に生きていけない。
一致させることはできない。しかし近づけることはできるはずだ。それは言葉や表現を通じてのコミュニケーションによって可能となる。お互いに住みよい社会にするためには、そういった歩み寄りが必要だ。