常識的で何か問題でも? 反文学的時代のマインドセット (朝日新書)
日本の哲学研究者、コラムニストであり、合気道家でもある内田樹氏。
本書は内田氏がAERA誌に連載していた「eyes」巻頭コラムを書籍化したもの。一つのコラムは900字程度と小さくまとまっており読みやすい。
帯に書いてある、リスクに備える姿勢というのは本書のテーマと言うか、内田氏の合気道家としての信念である。内田氏のファンの方向けの書籍という印象だ。
目次
最悪の事態に備えること リスクを過小評価しないこと
AERAは朝日新聞社発行の雑誌だが、内田氏のコラムには新聞社を含むメディア批判の内容が多く含まれるのは興味深い。
本書の前書きの部分でも、このまま行けば早晩、全国紙は日本から消滅する。これは新聞社にとってのリスク、というより喫緊の課題である。にもかかわらず、新聞はそのニュースは報道していないと指摘している。
そしてメディアがこの調子なので、他の業種、政治家や官僚、企業にしてもみな当面の利益のことしか考えていないと言う。すでに破綻の兆候は現れてきているが、不都合なそれらは隠蔽されている。
いや、隠蔽というほどの能動的な話ではなく、直観するほどの勇気が無いのでただ見ないふりをして放っておかれていると。
人は知りたいことしか知ろうとしないし、理解したいことしか理解しない仕組みを持っている。不都合なことには目を向けたくもない。目を向けなければそんな事実は存在しないとでも言うように。
ここを読んでいて、神林長平の作品、「グッドラック 戦闘妖精・雪風」の中の一節を思い出した。以下に引用したい。
そうなってほしくないことこそ、それに対処すべく頭を振り絞るべきで、いやなことを考えさえしなければそれは実現しないというわけではない。むしろ現実というのはその逆で意地悪なものなのだ、神林長平 「グッドラック 戦闘妖精・雪風」
物語中盤、ちょうど盛り上がるあたりのワンシーンである。ブッカー少佐は、主人公が所属する部隊の現場指揮官であり、中間管理職である。ブッカー少佐は自分にとって不都合な可能性を想定から排除してしまい、結果その不都合な事態がまさに発生することで部隊を危機的状況に陥れてしまった。その自戒が、以上の独白である。
自分にとって不都合な事実と向き合うこと、そして起きてほしくないことを直視して対策することは苦痛を伴うものだ。
そして苦痛と向き合って、手を打ったとしてもそれは予防接種の効果のように、わかりにくいことが多い。
予防接種も注射は間違いなく痛いが、あらかじめ受けておいたから、病気に感染しなかったのか、受けなくとも感染しなかったのか、特定の個人を対象にその効果を明らかにすることは難しい。
しかし、それでも予防接種を受ける選択をするのが、正しいリスク評価であろう。
若い世代の地方移住、農業
比較的若い世代の地方への移住、また農業への回帰という現象が起こっており、統計にもそれが現れていると紹介されている。私の身近にも勤めていた会社を辞めて地元に帰り、農家となった人がいたが、実際全国的にも増えているのだろうか。
NHKでやっている「猫のしっぽ、かえるの手」と言う番組は、ベニシア・スタンリー・スミスという人の番組だが、地方に回帰して農業であったり、伝統工芸の職人といった生き方を選ぶ若者が良く登場する。あれを見ていると、そういった選択肢もありだな、と思える。テレビで見ているのと実際にやるのは全然違って苦労の絶えない生活だろうが。
猫のしっぽ カエルの手 http://www4.nhk.or.jp/venetia/
昨今の金銭欲や物欲をあおるような風潮、経済成長を絶対的な価値とするような風潮には辟易している人が多いのだろう。「プレミアムフライデー」が最たる例だが、消費しろ消費しろと連呼されても、こちとら別に消費するばかりが、人生の幸せとは思っていないよ、といいたい。
「道徳」的問題に出会うとき
第2章の「真の知的成熟とは何か」では、学校での道徳の教科化について、否定的に論じている。著者の内田氏いわく、道徳の教科化の狙いは、子供たちを上位者の命令に服従する人間とすることであると言っている。
そこでの内田氏の言葉が心に響いたので引用したい。
しかし、忘れてほしくないが、人間が真に「道徳」的な問題に出会うのは、「上位者が間違った支持をしている場合」「定められたルールを機械的に適用するとたいせつなものが損なわれる場合」である。
企業で働いていると上司からの業務命令が下されてそれに従って働くことになる。何も考えずに上司の命令に従っているのは楽である。責任は命令を出した上司が負うわけだし。
でも上司も間違うことがある。会社のトップだって間違うかもしれない。昨今の企業の不祥事を見れば、大会社の判断といえどずいぶんとお粗末なことがわかる。
そんなとき、自分の頭で考えて判断できるか、自分の良心に従って、声を上げることができるか。世の中で流されずに生きていくには、そういうことが求められていると正に感じる。
それは決して楽な生き方ではない。だけど後悔しないで生きるためにはその覚悟が必要と思う。
道徳の教科化については、わたしも違和感を覚える。道徳の「テスト」を行い、「採点によって評価する」と言うのは腑に落ちない。点数をつけて評価するというところは現状見送られるようだが。
ある考えを何をもってして、道徳的善とし、悪とするのかは教員にしても、指導要領を作成する人間にとっても簡単に決められるものではない。だいたい、色々な考え方を持つ人間がいることを認め合って生きていくことが求められる現代において、一義的な価値観を押し付けることは逆行しているだろう。
まとめ
分量的にも読みやすく、考えさせられる内容もあった。ただ、字数の制限からか、尻切れトンボになってしまっていたり、いきなり独断的な論調で語られたりする点はもったいなく感じた。
例えば、倫理的なジレンマ、例えば人工呼吸器が7台しかないのに、8人目の患者が来たらどうするか、といった「どうしていいかわからない時にどうすればいいかわかる人間にはどうすればなれるか」という件は、「有効な方法をいくつか知っているが、紙数が足りない」で終わっている。残念。
そこは最悪の事態に備えることというこの本のテーマとも関わるところと思われるので、何らか示してほしいところだ。
また、AERA読者にとっては、無条件で肯定されるような話題であっても、一般向けの言説としては説明が無ければ賛同されないところもあるだろう。そこも唐突に独断的に述べられると面食らう。まえがきや、あとがきを読む限り、理知的な方と思われるのでなおさらである。
しかし、文字数に制限のあり、またAERA誌の巻頭コラムの書籍化というところで致し方ないところではある。別の著作も機会があれば読んでみたい。