公立小学校の教育に見る、大人のエゴイズム:自分だけのマークってなんだ

「自分だけのマークを作ろう」

長女は、今年から小学校に入学した。先日授業参観があった。私は参加できなかったが、妻が行ってくれた。その内容は、(あくまで私にとっては聞いた話だが)私たち夫婦には違和感の感じられるものだった。

授業は、「図画工作」である。お題は「自分だけのマークを作ろう」。まず、先生があらかじめ用意した画用紙を配られた。その用紙は3角形だった。そして、底辺を手前側に向けて机に置くように、子供たちは指示された。

この時点で、妻は違和感を覚えたそうだ。自分だけのマークを作るのに、なぜ用紙が最初から3角形で規定されている必要があるのか、その方向もまた指示されているのか。

それでも、授業は進み、家の娘は悩んだ挙句「黄色い鳥」の絵を描いた。教室の中を歩き回っていた先生が、娘の絵を見てこう仰ったらしい。

「○○さん、これだけだと(シンプルすぎて)自分だけのマークにならないから、リボンとかつけたらどうかな?」

結局娘は、赤いリボンを鳥さんに追加した。

「自分だけのマークを作る」って何だろう。図画工作を教えるって何だろう。好きな形で、好きなものを描いたらいいじゃないか。個々の児童の個性で。誰がどう描いたって、小学校1年生の絵が、同じ絵にはならないと思う。誰がどう描いたって自分だけのマークになると思う。

それとも、

  • 「自分だけ」のマークには、オリジナリティが無ければいけない。他者のマークと区別するための明確な特徴が必要だ。
  • でも世の中には形式・フォーマットが存在する場合も往々にしてある。
  • 決められたフォーマットの中で、他者と区別するための特徴を備えたマークを如何に考案するか。(芸術性があればなおよろしい。)
  • というテーマだったら、上記の先生の対応が正しい。授業の真意はそこにあったのか?

学校教育は型にはめるもの

まだ、たった半年くらいだが、学校教育は型に嵌めるものという実感がある。型にはまっていないと、管理者にとっては扱いづらいから。「集団性活のルール」なるものなど典型である。こうやって子供から、「大人」が作られていくのか。

娘の入学以来の成長を見ると、字はうまくなった。入学前など、特に教えなかったこともあり、見よう見真似ではちゃめちゃな字を書いていた。「型にはめる」という性質上、定型的なものはうまく扱える。

社会に出て要求されるもの 自分で物事を考えて処理する力

でも、世間に出て自活する事を考えた場合、型にはまった事ばかりじゃない。問題が何なのかも分からない。自分で問題設定から考えなくてはならない。そしてそれに対してどういうアプローチを取るかも。社会人になって、組織に就職したら、途端に周囲からは、「指示待ち人間になるな、自分で考えろ」と言われるのだ。

学校では「先生」と言う絶対的な権威が、弱い立場である児童に対して善と悪を語るという図式に成らざるを得ない。しかし先生もまた人間であり、その言葉は絶対的なもので無く、相対的な価値しかない。でも学校で良い子にしているだけの子供には、それに気づく事ができない。それでは困る。

だから、そこは学校教育だけでなく、家庭での教育や、学外での経験を通じて本人に獲得してもらうしかないだろう。親が教え込むというのも、親もまた一種の権威であるから、本人がこの世界を生きて学び取るしかないのだ。

先生も大変だ

今まで好き勝手に言ってきたが、先生の立場も大変だ。私も含めて様々な家庭のお子さん、親御さんを相手にするのだ。小学生の授業の一こまは45分だったかで、その中である程度まとまった形に仕上げるためには、先生が与える枠組みが必要だったということもあろう。

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