書評:「ただしさに殺されないために」御田寺 圭

私の仕事は装置開発である。その一環として担当装置を、安全規格に対応させる業務もしている。人命と財産の保護を目的にした安全規格はまさしく「ただしさ」の権化のような存在に見える。

しかし規格はあくまで一般論であり、個別具体の製品に規格をどう当てはめるかはよくよく考えて解釈して行う必要がある。ちょうど憲法も解釈しなければ個別の問題解決の指針にならないように。

私は装置の主担当者として規格に則った「ただしい」装置を作らなければならない。ただしガチガチに「ただしい」装置は複雑化し製造原価が増加するし、おそらくユーザーにとっても使いづらい装置となる。原価の極端な増大は経営的に「ただしくない」し、ユーザーが不便なのも「ただしくない」。「何がなんでも安全性が最優先だ」と正論で殴ってくる相手(そういう人は往々にして規格の真意を理解してなかったりするのだが)をいなして、相反するただしさのバランスを見極めて決める必要がある。

そんな中、この本のタイトル、「ただしさに殺されないために」に惹かれて手に取ってみた。以下、印象的な箇所の抜き書きと共に読後の感想を述べる。

相対化の思想

これまで絶対的に善であり素晴らしいものだと信じてきた価値基準には、影の表情があることを突き付けられた。一方で、論ずるまでもなく悪であると軽蔑されてやまなかった価値基準にも、前者よりもすぐれていると評価するべき側面があることを知らされた。

御田寺 圭 「ただしさに殺されないために」

著者の御田寺圭は日本の文筆家で、ネット上では”テラケイ”や”白饅頭”の名義でも活動を行なっている。私も以前noteの有料マガジン(白饅頭日誌)を購読していたことがある。そんな御田寺氏のこの著作だが、キーワードとなるのは”相対化”だと感じた。物事の価値基準の相対化である。

相対化の秀逸な例が、第2章6項の「闘争と融和」で示されている。

ここでは、車いす生活を送る身体障害者の人物が、JR東海の無人駅である「来宮」で下車と乗車の介助を(小田原駅の)JR職員にお願いしたところ断られてしまった事件について考察している。

この時、車いす生活を送る人物は事の顛末をブログに書き多くの賛否が寄せられたそうである。「社会を変えるには、ときにはこうした手段も必要だ」という称賛の声の一方、「まるでクレーマーだ」「駅員が気の毒だ」という批判の声もあったという。

御田寺氏は、車いす生活者が社会生活に著しい不利益が生じる状況は可能な限り改善されなければならない、と述べている。そして、ある被差別者、非抑圧者がその差別的、抑圧的な社会構造に対して抵抗を試みる場合には、その社会で平穏に暮らしている人たちに対して、時には実害を及ぼす覚悟で待遇改善を求めなければ望む改善は得られない、これが歴史的事実であるとも認めている。

しかし一方で、いち民間事業者にあらゆる場面においてバリアフリーを求めることは、経営上活用可能なリソースが有限であることから現実的に困難であるとも指摘している。

バリアフリーと経営の合理化は、この社会が目指すべき理想論としては両立するが、しかし現実論としては二律背反的な側面を持つ。

御田寺 圭 ただしさに殺されないために

そして、無人駅での介助を要求した利用者に対して一部から非難の声が上がった理由を次のように推測している。

この社会で生きる一般市民の大部分は、相対的には「自分の特権性に無自覚な強者」として思えたとしても、実質的には日々の生活をどうにか送るだけで精いっぱいの弱い強者で構成されている。駅で起こったトラブルの光景を見た一般人は、自分が「労働者」として味わうつらく理不尽な日々をそこに重ね合わせてしまった。突然やってきた、自分より圧倒的に強い立場の顧客の難題に対して応じられないことを伝えると、詰問を重ねられて、ますます身動きが取れなくなる—この社会で生活する多くの弱い強者たちは、そのような光景をまるで「我がこと」のように感じた。

御田寺 圭 ただしさに殺されないために

ここでは健常者に対して一般的に弱者とされる車いす生活者が、特定の文脈においては特権的な強者として健常者との関係が逆転すると指摘している。この主客の転倒はまさしく御田寺氏が行った相対化の見事な例であり、非常に感銘を受けた。まるで荘子の「胡蝶の夢」のように、ここでは弱者と強者が反転し、強弱の区別は定かでなくなるのだ。

西欧人権思想の相対化

上述の電車の例では民間事業者のリソースの問題がネックとなっていたが、さらに言えば社会全体でもリソースが十分なわけではない。

先進的な社会で暮らす人びとが当たり前のように享受する「人権」は、自然発生的に存在しているものではない。ましてや、神々からもたらされた奇跡の恩恵などではありえない。あくまでその社会で暮らす人びとがその存在について合意した共同幻想にすぎない。」
「人権」という人工的な理想の社会規範を成立させるためには、人間によるリソースの供出が不可欠だ。だれもが恩恵を得る立場に立ってしまっては、泉はたちまち枯渇してしまうからだ。
ところが、自分の自由や権利を最大化したいと考える人が「人権」の実質性を維持するためのリソースを供出してしまうと、自分の自由や権利を最大化できなくなるという、ある種のパラドックスがある。したがって、そのパラドックスを解消するためには、誰か別の人により多くのリソースを供出する役割に回ってもらうほかない。その人に「泣き」を見てもらうのだ。

御田寺 圭 「ただしさに殺されないために」

さらに本書で何度も繰り返し述べられているのは、西欧の人権思想による多様性の尊重に内在するパラドックスである。多様性を尊重するものは、自分にとって好ましくないものも同様に尊重しなければならない。そして尊重すべき対象には「尊重した相手が多様性を尊重しないこと」をも含まれている。

ムハンマドの風刺画は、イスラム教徒の信仰や規範体系に基づけば、到底受け入れられないものであることは間違いない。他方で、西欧文明圏においては基本的人権のひとつである「表現の自由」により、その権利は当然に保障されている。しかし、イスラム文明に属する人びとが「表現の自由」のような西欧文明の人びとのローカルな発明品を、自分達の信仰より優越した概念として遵守する道理などない。もとよりそうしないこと自体を「人権」が是認している。


御田寺 圭 「ただしさに殺されないために」

ただしさを実現するためのリソースの不足、は製品開発においても共通する課題である。ものづくりにおいては、ただしくない部分のリスクを適切に評価し、リスクをゼロにするのではなく”社会的に許容できる程度”にすることが重要だ。実は冒頭に述べた安全規格の精神もそこにある。リスクを評価し、対策に必要なコストと発生時の被害を天秤にかけて、適切な対処法をとっていく必要がある。これをリスクアセスメントと呼ぶが、社会におけるリスクアセスメントをどのように実現していくか、が課題と感じた。

やまゆり園殺傷事件 植松思想

常日頃は他人を「役立つかどうか」の軸で明らかに「選別」しておきながら−結果的にその選別によって社会的に追放され、あるいは生活が立ち行かなくなり、死に追いやられた人すらいるにもかかわらず−いざ植松が障害者に対して刃を向け、社会が構築している「選別」をよりラディカルに、そしてグロテスクな方法によって代替的に実践したときにだけ、そのような思想は自分たちの社会にはまったく相容れないもので、事実として一片たりとも存在していないし、今後も許容される余地は微塵もないと「殊勝」な態度を示す人びとの姿は、社会の実情に対してあまりに鈍感か、あるいは欺瞞的にさえ映る。

御田寺 圭 ただしさに殺されないために

本書では2017年の相模原やまゆり園の殺傷事件も取り上げられている。相模原市民の私としてはとても印象深い事件である。この事件について、自分の心の中にある問題意識は

犯人の植松氏の思想「生産性のない人間に生きる価値はない」という主張を自分は否定できるのか、

自分はそういう考え方をしていないと断言できるのか、

そして殺害行為は決して許されないとしても、「彼の思想自体を有り得ないもの」として論じる風潮は偽善ではないか。

という3点である。先のイスラム系移民の例の通り、少なくとも内心にそのような思想を持つこと自体は基本的人権として認められている。その思想の良し悪しを検討せずに彼の行為と結びつけて棄却するのはおかしいと感じている。

私はやまゆり園の近くに何度訪れたことがあるので、やまゆり園がどのような場所にあるか知っている。人里離れた山奥である。山奥にあの施設があるのは何故か。やっぱり街中にはあのような施設を作ることは難しいだろうと予想される。みなが忌避して隠蔽した結果じゃないか、と言われても仕方ない。あのような隔絶された場所で、毎日毎日、自分は植松氏と同じ仕事を続けることができるだろうか。率直に言って望んであの仕事をやりたいとは思えないし、自分が植松氏にならなかったと断言はできない。

植松が刑の執行を待つ身となったいま、どうしてもこのことに触れなければならない。すなわち「植松が死刑に処されることによって、植松の主張は完結する」と。

「生きる価値のない人間は殺してしまえばよい」という植松の主張を否定しながら、しかしこの社会は植松に対して「お前は生きるに値しない人間である」と断じている。植松の思想や行為を強く否定しながら、同時に植松の思想や行為と同じ帰結によって彼を裁いている。どんな人間でも、たとえ生産的でなくても、生きる価値がある。生きてもよい。社会は植松の凶行に対して相応じた。だが植松はその連帯の「例外」となった。生きる価値がなく、死ぬべき存在として。

御田寺 圭 ただしさに殺されないために

私はあの事件について十分調べたわけでもなく、しっかり考えたこともない。ずっと宿題のまま残してしまっている。

御田寺思想もまた相対化される。

御田寺は現代においてラディカルな思想(本書の例では、反ワクチン、フェミニズム、ヴィーガンなど)に傾倒する人々に対して次のような背景があると指摘している。

多様性が尊重され、だれもが「ただしい」とされる世界で、それでもなお生きづらさを感じて生きている人たちがいる。彼らは誰もが「ただしい」とされる多様性の優柔不断さに嫌気がさし、特定の誰かについては「ただしくない、間違っている、倒されるべきだ」と示してくれる思想を求めた。それがラディカル思想であると。

傷つき弱った人に刺さった棘ーそうなったのはあなた自身の努力不足、または性格や人格などの問題によって生じた結果だという声ーをやさしく抜きながら、「あなたを傷つけたのはあいつだ。一緒に戦おう」と寄り添ってくれる思想体系が多くの人を魅了するのは当然だ。

御田寺 圭 「ただしさに殺されないために」

ただ、御田寺思想の共感者もこのようなラディカリズムに陥らないように注意が必要だろう。私が御田寺氏のnoteの購読をやめたのもそのせいもある。御田寺氏の思想、特にアンチフェミニズム、男性擁護の思想はとても共感できるのだが、自分の耳にあまりにも都合よく聞こえて、それが故にのめり込むと危険な感じがした。

昨日まで信じてきたことが、明日には通用しなくなり、今日教わった真実が、明日には虚偽になっている。両面的に、いや、多面的に物事を捉えるようにしなければ、もはや自分の目は、自分自身を欺くように働いてしまう。
私たちの世界は、太陽の光が当たれば、必ず陰になる部分ができる。その陰影を捉えてようやく、世界は立体的に見える。

御田寺 圭 「ただしさに殺されないために」

御田寺思想もまた一つの思想として自分の中で相対化されなければならない。多面的に物事を見るとはそういうことだろう。

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