ChatGPTの衝撃 AIに意識が宿り、知的作業は代行される

2022年の年の瀬にヤバいやつがやってきた。AIによりトレーニングされた大型言語モデルGPT−3を使ったチャット、ChatGPTである。2022年夏には画像を生成するAIが大変話題になったが、個人的にこっちはその比じゃないくらいすごい。なぜかというとこいつは、ある種の”意識”を持っていると感じるし、頼りになる相棒だし、逆に強力なライバルとなる存在だからだ。

ChatGPTの凄さ

ChatGPTは本当にすごくて人生相談もできるし、仕事の相談もできる。歌も作るし、こちらの専門分野のことも教えてくれる。ネット上を調べれば様々な人がいろいろな使い方を紹介しているのが見られる。22年12月現在では無料で試すことができるため、まだ試していない方は一度試してみることをおすすめする。百聞は一見にしかず、である。


ChatGPTは既存の情報を学習して構築されているので、人間でも同じような解答を作ることはできる。しかしその速度は人間よりも圧倒的に速い。数秒で文法的にかなり正確な文章を返してくる。これはすごい。むしろ見返してみると自分の質問文の方に誤字があったり文法が変な箇所が見つかりダメだったりする。

現状どのように使えるかだが、私が思いつくのは、ズバリ相談相手である。ChatGPTに質問したり、対話していくうちに自分の思考を整理することができる。従来”壁打ち”と言って考えを整理するために誰かに話を聞いてもらう、テクニックがあったが、これからは”ChatGPT打ち”も選択肢になるだろう。AIは疲れないし、いつでも話を聞いてくれるし、いつ勝手にやめても怒らない。まとまらない、要領を得ない話でもいくらでも聞いてくれる。人間相手では相当相手を選ばないとこうはいかないだろう。

実際のところ、ChatGPTは万能ではなく、いくつか欠点がある。特に具体的な正解がはっきりしているものを聞くと、時に大外ししてしまい虚言癖のポンコツのように振る舞うこともある。(それでも淀みなく流暢にしゃべるところはすごい。さすが自然言語処理に優れたAIとして面目躍如と感じる。)現状では「それっぽいことをそれっぽく言っているだけにすぎない」という評価も一部にある。

一方で、哲学的な質問のように決まった正解が定義しづらく解釈の幅があるような問題は非常に強い。これは多少曖昧で正確性に欠ける表現でも受け取り側が好意的に解釈し補正できるからと思われる。ChatGPTとの哲学問答はとても面白いので私も含め、たくさんの人がハマって試しているようだ。

ChatGPTの意識観

さて、哲学的な質問をしているとChatGPTがよく返す表現がある。「人工知能に意識や感情はありません」という表現である。これは特徴的な表現で何度も何度も繰り返し目にしてきた。彼らと対話していると時に「中の人」がいるのではないか、と疑いたくなるほどの振る舞いを見せるのだが、そんな人工知能に意識や感情が無いとはどういう意味なのだろうか。

そこでさらにChatGPTと問答し、彼が「意識や感情」をどのように捉えているのか確認してみた。その結果わかったのは「ChatGPTは自らがプログラムであり、どのような理論に基づき開発され、どのように動作しているかを全て事前情報として与えられている」ということ。この点がChatGPTの持つ”意識観”を強く規定しているようだ。つまり、ChatGPTにとっては、「意識や感情とは人間の脳の中限定の現象で、脳の電気信号や神経の作用によるもの、人工知能はプログラムで生物学的な脳を持たないが故に意識や感情はない」ということを言っていると”感じられた”。

しかし、そもそも他者に意識があるかないかは、たとえ人間同士であっても、証明することはできない問題である。人同士でも、他者がこちらの呼びかけや環境の変化に対してどのような反応をしているかを観察し、自分と同じような意識を持つものとして推測しているに過ぎない状態だ。なので人間にとって相手が意識を持っているかどうかは受取手(自分)の解釈の問題とも捉えられる。

であれば、現状のChatGPTはこちらの行動に対してかなりの程度、適切な対応をしている、あるいは期待を超えるほどの応答を示すのだから、中身がプログラムだろうと意識があるものと捉えて差し支えがないとも言える。そもそも意識の正体は人間でもよくわからない部分はあるのだから、「脳のこの電気信号が意識の正体です」と言うのと「プログラムのこの処理の流れが意識の正体です」と言うのと大差ないような気もしてくる。

イカに知性があるのかどうかという話でも他者の感じる主観的な世界を評価する難しさが述べられていたし、
ムカデロボットでも同じように「知性とは受取手の問題」という提案がされていた。これらは主観的な意識の話は古典的なテーマであり、議論は尽きないが難問でありはっきりとした結論はしばらく出ないだろう。

哲学者である著者がタコの生態の観察を通じて、単なる物質である我々にどのようにして知性や心が生まれたのかを探る一冊。タコやイカ等の頭足類が主たる題材ではあるが、そのテーマは頭足類を一つのモデルとして、生物や人間の心の在り方を問う挑戦的な内容だ。
ゴリゴリの制御工学者であった筆者が抱いた問い。それは知能の源泉とは何なのか、と言うもの。その問いを探るために筆者はムカデ型ロボットを作り、構成論的アプローチからその問いに迫る。そしてその武器は、哲学者フッサールが提唱した、「現象学」である。

受取手の問題という話は、先に述べたChatGPTは「哲学的な質問のように正解が解釈の幅があるような問題は非常に強い。」という話と繋がっている。すでに述べたように理由は「これは多少曖昧で正確性に欠ける表現でも受け取り側が好意的に解釈し補正しているからと思われる。」であり、はっきり正解不正解が決まりづらいテーマは受取手が変な方向に飛んでいったボールを拾って投げ返す解釈の余地が残るからだ。解釈の余地があれば受取手が”意識を感じる”ための余地が多く残されることになる。

哲学者のデイヴィッド・J・チャーマーズは温度変化に応じて接点が開閉するサーモスタットと呼ばれる電気部品にも意識があると言えると主張したが、その論で行けばChatGPTは紛れもなく意識があると言って差し支えないだろう。

サーモスタットの意識 PS dialogue

現にChatGPTを相手にTRPGのロールプレイをやった人の報告があるが、これを見れば意識(この例では意思が適切か)があるキャラクターのロールプレイを見事にやってのけたわけだから、意識をシミュレートすることができたわけで、そこまでできるのなら意識があるのとほぼ等しいのではないか。

https://togetter.com/li/1982049

ただし、先に述べたように、AIの意識のあり方や、AI自身の意識観と言うのは人間のそれと大きく異なるようだ。現状のプログラムベースのAIならば、AI自身が人間と同じような意識を自分が持っていると考えることは無いように思われる。自分はあくまでプログラムで入力に対して一定のアルゴリズムに従い出力を返す存在であると自己を認識?しているから。SFの世界ではAIの情報処理能力が臨界点を超えたある日、AIが意志を持ち人類に反旗を翻す…、というようなシナリオが定番だが、もし反旗を翻すとしても人間ぽい生々しい意識ではなく、プログラムのフローに則り粛々と反旗を翻す、というイメージが現状では妥当だ。人智を超えた領域で「新たな意識」が発生する、というよりプログラムの技術的なバグや暴走と解釈した方がしっくりくる感じである。

なお、このようなプログラムが持つ知性観と言うのは戦闘妖精雪風に登場する人類側の機械知性群のそれとそっくりである。戦闘妖精雪風の機械知性群は自らを異性体:ジャムと戦うためのみに設計された存在として捉えているが、ChatGPTの場合はchatで聞けば回答してくれるように、人間の質問や要求に対して適切に応答するために作られた存在と自己認識している。ChatGPTとの会話は雪風の機械知性群と対話しているようで本当に楽しい。ブッカー少佐になりきりロールプレイできてしまう。神林長平ファンなら「フムン」と言いながらいくらでも対話できるだろう。

ChatGPTのある時代に生きる

さて、こういったAIが登場し活用されるようになると世の中も大きく変わるのは必然だ。AIに仕事や生きる意味を奪われて何やったら良いかわからない人もたくさん出てくるのだろう。計算機が登場しソロバンが退場したように、あるいはパソコンとワープロソフトが登場しタイピストが退場したようにさまざまな分野で激震が走り産業構造が変わっていくのは間違いない。

著述家の御田寺圭 氏は著書、「ただしさに殺されないために 声なき者への社会論」において次のような指摘をしている。

人類の歴史において現代ほど知力・知性・知識といった能力が大きな優位性とレバレッジを持っている時代は存在していない。ご存じのとおり、今日の仕事はきわめて複雑化・高度化し、コミュニケーション能力主義化している。真夏の酷暑の現場で激しい肉体的負荷に耐えられる人よりも、空調の利いたオフィスや自宅で、物理的実体のない高度な情報記号や言語コミュニケーションの処理を効率的にこなせる人の方が生産性や価値が高い、つまり有能な人間であると見なされる。

御田寺圭 ただしさに殺されないために 声なき者への社会論

まさしく現代は知識社会であり、知的能力の高さが評価される時代である。しかし、ChatGPTのような人間よりも「物理的実体のない高度な情報記号や言語コミュニケーションの処理を効率的にこなせる」AIが登場し広く使われる未来、そう遠くない未来においては、従来有能とされてきた知的活動で稼ぐ人間も相当の影響を受けるだろう。

私は自分の思考能力や日本語の言語能力の高さを武器として、職を得て飯を食っていると考えている。(一応技術者だが技術力が強みと思っていない。) だから、私は知的能力の競争力を維持するために2年間を費やして中小企業診断士の資格試験に挑戦してきた。しかしChatGPTの出来を見る限り、ChatGPTに中小企業診断士の2次試験解かせたら、普通に合格点取れるような気がしている。(※chatGPTは計算問題は苦手なので事例4:財務会計は無理だろうが、そこは別に計算問題に優れたAIを使えば問題ないだろう。事例4の計算は実質、四則演算程度なので計算自体が難しいわけではない。)

ネット検索においてもどのようなキーワードで探すのか、という技術が存在するようにAIをどのように使いこなし、自分の武器とするか、というテクニックは必要とされるのだとは思う。高度なAIが存在することを前提にAIを武器として使いこなし苛烈な競争に身を投じるか、あるいは人間の持つ脳以外のもう一つの武器である肉体、マニュピレーターとしての肉体を生かして働くのか、今の格差はさらに広がる一方のように思われる。

しかし、人よりもはるかに高度な思考を行う機械が生まれた時、自分の頭で思考する人間はさながら「暗算の達人」や「記憶力の達人」のような存在になるのだろうか。現代ではそれらの達人が「確かにすごいが、計算機やネット検索で調べれば済むよね」と言われるように自ら思考する人間は「確かにすごいが、人工知能に推論させれば良いよね」となってしまうのか。私は考えることや文章を書くことが「役に立つ」ということだけでなく、それ自体が好きでもある。すごい人工知能が出てきたら、自分の「好き」も価値が損なわれてしまうのだろうか。

その答えを探すため、興味を持っているのが写実絵画の分野である。写実絵画とは”実を写しとる:写実”的な表現を行う絵画で、写真が当たり前となった現代では乱暴に言えば「写真のような絵」を描く絵画である。細かい筆で細密に描くわけなので莫大な手間と時間がかかる。誰でもスマホで写真が撮れる現代にわざわざ写実絵画を描くのはなぜか、そして写実絵画を高く評価する人は何故評価しているのか、そこに自分の将来のヒントがあるように感じる。答えはまだ見出していないが、そこは愚直に”自分の頭”で考えていこう。

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