書評:外山滋比古 思考の整理学 を読む

思考の整理学 (ちくま文庫) 「東大生が読んだ」のコピーで有名な思考法についての本。よく大学生協にも置いてあったりするので、目にした事がある方も多いのでは。著者の外山滋比古氏は 、お茶の水女子大学名誉教授、日本の英文学者、言語学者、評論家、エッセイストである。本書は1983年刊行以来、30年以上読み継がれ225万部発行のロングセラーである。
私自身、学生時代に生協で買って読んだ記憶があるが、今回改めて読み直してみた。なるほど、初版は1983年で新しい本ではないが、今読んでも刺激に富んだ内容で、いささかも古びていない。個人的に気になったポイントを以下に示す。


グライダー人間と飛行機人間 そしてAI

「思考の整理学」で有名なフレーズと言えば、「グライダー人間」と「飛行機人間」の比喩である。 近代の学校教育において大量生産された、与えられた課題は上手に解けても、自分で課題を設定することができない、自力で飛べないグライダー人間。それに対して、自分で定めた目標に対して独力で飛んでいける飛行機人間。といった意味である。 この指摘に加えて注目なのが、当時出始めたばかりのコンピューターに対して、「コンピューターは非常に優秀なグライダーとなる。今後、グライダー人間は生き残れるか。」と述べている点だ。 コンピューターと人間の相克は、まさしくAIとの議論として繰り返されている。時代を先取りしたというか、時代が螺旋をかくように繰り返しているというか。いまや、当時のコンピュータよりも現在のAIはさらに出来ることが増えている。この時代で、人はどう生きていべきか。 いや「人」とかいう大きな枠組みの前に、「自分」はどう生きていくべきか、どう生きたいのか。その答えは自分で試行錯誤のなかから学ぶしかない。 救いは、AIは今後飛行機になりうるのかという点だろうか。AIはまだあくまで設計された存在であり、グライダーの域を出ていない。「実存は本質に先立つ。」 はサルトルの言葉だ。スプーンは目的を設定されて設計された存在だが、人には最初から与えられた目的など無い。自分がどう行動するかによって、自分の人生や生きる目的が形作られていく。 人には、どう生きるべきかと問う能力があるが、AIはどう存在するべきかと問う事はないだろう。生きる事をAIに代わってもらう事はできない。
 人間とはなんなのか、という反省がすこしずつ芽生えてきた。われわれはこれまでいっしょうけんめいに勉強して、コンピューターのようになることを目指していたのであろうか。  ただ、これからの人間は、機械やコンピューターのできない仕事をどれくらい良くできるかによって社会的有用性に違いが出てくることははっきりしている。どういうことが機械にはできないのか。それを見極めるのには多少の時間を要する。  創造性といった抽象的な概念をふりまわすだけでは仕方がない。 人間らしく生きて行くことは、人間にしかできない、という点ですぐれて創造的、独創的である。コンピューターがあらわれて、これからの人間はどう変化して行くであろうか。それを洞察するのは人間でなくてはできない。これこそまさに創造的思考である。

AIは自らがどうあるべきか、ということを問うだろうか。AIに欲求はあるのだろうか。それとも人間にも欲求はなく、AIがアルゴリズムに従って判断するように、我々も自然選択によって作られた傾向性に従って生きているだけなのだろうか。フラスコの中で揺られている化学物質が結合するように。 そう考えれば、AIも我々も同じ自然現象の一環である。いずれAIの開発が進み、自我を持つAIが生まれるかもしれない。だがそれまでにはまだ時間があると思う。その間に人間の本質とは何かを問うていく必要があるのではないか。

アイデアを寝かせて発酵させること

この本に書かれていることで、私自身絶対におすすめの思考法はいくつかあるが、その中でも、「アイデアを寝かせて発酵させること」については一押しである。 物事を考えるときに、ひたすら集中してそのことだけを一日中考えていても妙案は浮かばない。(見つめる鍋は煮えない。)一晩寝て、すっきりした朝の頭で考えればあっさり解決したりする。あるいはもっと数日、数週間寝かせておく。そうすると元々のアイデアがもっと成長して豊かな着想となるという指摘だ。 これは、機械設計者としての私の実体験からもうなづけるところだ。設計時に難しい箇所に行き当たったとき、無理して張り付いて考えてもいいことなし。早めに一度取り掛かっておいて、真剣に取り組んだ後、別のことを始める。そのうちいいアイデアが出てくる。バックグランドでウイルスのスキャンをやってたみたいに。 一度取り掛かるときは、どうせ後でやり直す、と思わないでその場でしとめるつもりでしっかりやること。その上で、終わらなければ一旦距離を取る。その間に、考えが整理される。一度真剣に向き合わないと駄目。
徹夜で設計して、図面を起こしても、製図ミス、設計ミスだらけ。それがそのまま出図されてしまい、加工して組み立てる段になって設計不良が明らかになる悪夢。出来上がってからの修整は、図面を書く段での修整に比べ、手間も時間も大きい。その対応に時間が取られるために、次の設計業務に時間がとれず、低品質な設計が行われ、その手直しに時間が。。。と言う無限ループ。
もしマルチタスクができるのであれば、こういう方法以外に無いだろう。無意識の時間を使って考えを生み出すことで、仕事を効率化できる。 経験が浅いうちは、何事も一生懸命になるものだ。締め切りが気になるし、ベテランほど仕事量が多いわけでもないから、つい頭が煮詰まった状態でも延々とうなりながら仕事をしてしまう。それはそれでいい経験だし、必要な時間かもしれないが、寝たり別のことをやっている間にいつの間にか、解決策が見いだせたりするものである。

アイデアは複数個持て

「一人では多すぎる。一人では全てを奪ってしまう。」
 ウィラ・ギャザー
これも大事な指摘だ。何かをやるときに、アイデアやアプローチは複数確保することが大事。一つの方針だけでは「多すぎる」のだ。一つしかないと、人間その一つに執着してしまう。他のことが考えられないし、いつしか他の方法があることを認められなくなってしまう。そうなったら、その一つのプランがもし駄目だったときのバックアップがない。 現実はいつも意地悪なもので、こちらの想定を裏切ってくる。手段は多いほどよい。いつでも視野を広くしておき、多様な意見を受け入れる度量を持ちたいものだ。 2018年、阪神タイガースは助っ人外国人野手をロサリオ選手一人しか獲得しなかった。韓国球界での実績から活躍間違いなし、と見込んでのことであったが、実際は期待に応えることができなかった。しかも、代わりの助っ人外国人は獲得していなかったため、プランBもなく、ずるずると損切りできずに試合に出し続け傷口を広げることとなった。「一人では多すぎる」は、プロ野球のチーム作りにも当てはまるようだ。

思考を書き起こすと言う行為

書くのは線状である。一時にはひとつの線しか引くことができない。「AとBとは同時に存在する」と考えたとしても、AとBとを完全に同時に表現することは不可能で、かならず、どちらかを先に、他をあとにしないではいられない。」裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。
再読してみて、なるほどとうなづかされた点。これは確かにそうだ。 文章を書き起こすまえの脳のなかの思考はもやもやと重層的に重なり合ったり、うごめいたりしていて複雑で一定の形を取らない。そこを一筋の文章として書き起こしていくのは、まさに「線状のことばの上にのせる」ということだ。 これは、仕事の仕方としても捉えらえる。タスクは立体的にごちゃごちゃと重なっているが、そこから自分が作業するには一時には一つの作業しかできない。だから、マルチタスクは個別の一本一本の線を素早く正確に描くことでしか達成されない。複数の仕事を抱えてもスムーズに仕事をこなせる人は、何が優れていると言えば、一つ一つの仕事を確実に早くこなすことができるのがすごいのだ。決して聖徳太子みたいに複数の仕事を本当に同時にやっているわけではない。

「時の試練」を越えた一冊

「時の試練」という言葉が本書の中で出てくる。世間での評価というのは、一時的なものに過ぎないことが多い。一世を風靡しても、少し時間が経てば色あせて見えるものばかりだ。
一つには、それまでの考え、それに基づく流行の色眼鏡をかけて見ているからである。まわりがひとしくかけている眼鏡をはっきり一時的なものと看破することは難しい。

我々はその時々で、固有の色眼鏡を持って物事を見るしかできない。その中で時間が経ってもなお評価されているものは、真に優れたるものと言える。それが「時の試練」に耐えるということだ。 その点、30年以上にわたって読み継がれる本書は、まさしく「時の試練」を潜り抜けてきた一冊と言えるだろう。

併せて読みたい

本書は、中日ドラゴンズの根尾昴選手の愛読書としても最近注目されている。その根尾選手が他に読んだ本として以下の「論語と算盤」がある。クレバーな選手になりそうなので、今後に期待だ。
渋沢栄一は日本資本主義の父、実業界の父と称せられる明治時代の大実業家。現代社会においても指摘される資本主義や実業が内包する問題点を先取り、孔子が論語において示した倫理に従い、バランスを保った生き方をせよ、と説く。
発想法として見ると、下記の「知的生産の技術」はよく似た題材を扱った本だ。
知的生産の技術 (岩波新書) 生態学者、民俗学者である梅棹忠夫の情報整理、発想法の技術論。ベストセラーとなった本...